第10回 ガンダーラ仏教の隆盛
イラスト ヨシザワスタジオかつて、日本の流行歌にも歌われたガンダーラは、現在のパキスタン北西部ペシャーワル周辺に相当する。インド西北の辺境に位置しているが、この地名は古い文献にも見られ、比較的早い段階からインドと密接な関係があったものと思われる。また、この地域は東西の要衝であり、インド系、ペルシャ系、ギリシャ系、中央アジア系といった多くの民族が入り込んで、様々な文化の交流が起こったことでも知られている。
ガンダーラへの仏教伝播の経緯について、詳しいことはわかっていない。これまでに見つかっている碑文のなかには、マウリヤ朝のアショーカ王が領地の西北部に使節を派遣したことを記したものもある。ただし、これは「法(ダルマ)」の伝播について述べたものであり、仏教そのものの伝播を示すものとは言えない。しかし、時が移ってクシャーナ朝のカニシカ王の時代になると、ペシャーワルにプルシャプラと名づけられた都が置かれ、大乗仏教が隆盛を極めることとなった。カニシカ王は、仏教だけでなく、あらゆる宗教に対して寛容であったと考えられるが、仏教徒の伝承によると、仏教に帰依し、四度目の経典編纂会議(第四結集)を行ったとされている。また、ガンダーラの地は、法相宗の祖、無著(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)生誕の地としても有名である。
タブーだった仏像美術
そして、何よりもガンダーラを有名にしたのは、この地で作られた仏像であろう。ブッダの入滅後、長い間、その姿を表現することはある種のタブーになっていた。そのため、図像の中でブッダがいるべき場所には、それを暗示する仏座や傘蓋、象徴としての菩提樹や法輪などが描かれていた。ところが、クシャーナ朝時代に入り、ガンダーラ美術が栄えると、人間の姿をとったブッダが表現されるようになった。こうした仏像は、ギリシャ・ローマ系美術の強い影響のもとで作られており、写実的な作風を特徴としている。一方、ガンダーラとほぼ同時期に、インドのマトゥラー(現在のデリーの南東の都市)でも盛んに仏像が作られた。こちらは、ガンダーラ美術とは対照的に、彫像のがっしりしたフォルムなどインド固有の伝統的手法に基づく純インド的な作風を特徴としている。
高さ15メートル、直径50メートルの仏塔跡を中心にしたパキスタン北部、タキシラのダルマラージカー遺跡。紀元前3世紀頃の建立で、パキスタンの最も古い仏教遺跡のひとつとされる。写真 田村 仁
ガンダーラ美術とマトゥラー美術は様式も大きく異なっており、直接的な影響関係などは認められないとされる。そのため、長年にわたって、両者の先後関係をめぐる活発な議論が行われているが、いまだ決着はついていない。ただ、両地域がクシャーナ朝の二大根拠地であったという点は注目に値する。
このように、一時は非常に栄えたガンダーラ仏教であったが、三世紀の中頃からは急激に衰退していった。わが国において「三蔵法師」の尊称で親しまれている玄奘も、インドへ向かう旅の途中、このガンダーラを通ったことが知られている。ただし、その頃のガンダーラには、かつての面影はなく、千カ所ほどあった仏教寺院は、すっかり朽ち果てていたと伝えられている。
(文・堀田和義◎東京大学大学院博士課程)