17号長谷寺・智積寺

仏教新発見・第17号
『長谷寺・智積寺』
発行:朝日新聞社
定価:580円

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第17回 漢訳仏典を読む


中国の仏教受容と伝統思想
イラスト ヨシザワスタジオ

 漢訳仏典とは、インドや西域の言葉を漢字に翻訳した仏典のことである。中国人にとって、外来の宗教であった仏教が定着するためにまず必要な基礎作 業は翻訳であった。これは後漢代(一~三世紀)から宋代(一〇~一二世紀)までの約千年にわたって行われた大事業であった。数多くの翻訳僧の中で、特に秀 でた鳩摩羅什、真諦、玄奘、不空の四人を「四大訳家」と呼んでいる。

 漢訳仏典は膨大であるため、ここでは大乗経典である『法華経』と『華厳経』とを紹介するに止める。そもそも大乗仏教は、思弁的となり大衆とは離れ た存在になった部派仏教を批判し、その教えを「小乗」と呼び、また声聞、縁覚と呼んだのであった。こうした声聞、縁覚に対して「菩薩」の優位を説いたのが 大乗仏教であったが、『法華経』ではそこから一歩進んで声聞、縁覚、菩薩の三者を総合する立場を打ち出すようになった。「唯だ一仏乗のみ有り。亦た二も無 く三も無し」(方便品)と説く『法華経』の一節は、三乗の上に一乗が存在することを高らかに説いた教えである。

 大乗仏教では唯心思想も発達した。盧舎那仏の悟りの世界を説く『華厳経』では、「三界は虚妄にして但だ是れ一心の作なり」と説く。三界(仏教の中 でのすべての世界)は虚妄な存在であり、それは人の心が作り出すものであると説かれている。さらに「心、仏、衆生、是の三は無差別なり」と説き、仏と衆 生、そして心の本来的な一致を説く。

石に刻まれた一切経
石に刻まれた一切経(大蔵経)。中国・北京の南西に位置し7世紀初め,隋代から造営が始まった房山雲居寺が所蔵する
写真 田村 仁

 中国で流布した経典は、必ずしもインドの原典を翻訳したものだけではない。その中にはインドの原典からの翻訳を装っているが、実際には中国で成立 した経典と考えられるものが数多く存在する。それらは真経に対して偽経(疑経)と呼ばれるが、中国人が仏教に求めるものが反映されているという点で、宗教 的には大きな意味をもっている。

 代表的なものに『父母恩重経』がある。これは中国固有の思想である儒教の倫理思想、とくに「孝」を盛り込んだ経典である。インドで誕生した仏教は 出家を前提としているが、中国では家を捨てることは不孝である。そのため仏教と孝とを結合させる必要に迫られ、父母の恩に応える方法として「能く父母の為 に福を作し経を造り、あるいは七月十五日を以て能く仏槃・盂蘭盆を造り、仏及び僧に献ぜば、果無量なるを得、能く父母の恩に報いん」と説く。

 漢訳仏典は、中国をはじめとして朝鮮、日本など東アジア仏教世界に共通した聖典であった。なお現在では『大正新脩大蔵経』(大蔵出版)に収録されている漢文仏典は、非営利の利用にかぎってインターネット上で検索ができるようになっており(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/japan/)、研究に大きく寄与している。

(文・佐藤 厚 さとう・あつし 一九六七年、山形県生まれ。専門はインド哲学・仏教史。東洋大学非常勤講師)