20号高山寺・神護寺

仏教新発見・第20号
『高山寺・神護寺』
発行:朝日新聞社
定価:580円

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第20回 朝鮮半島への伝来

三国時代の朝鮮半島と仏教伝来
イラスト ヨシザワスタジオ

 朝鮮半島に仏教が伝わったのは、半島が高句麗、百済、新羅の三国に分裂していた時代であった。最初に伝来したのは三七二年の高句麗であり、中国か ら伝わった。当時の中国は、異民族がかわるがわる中国北部を統治していた五胡十六国時代であった。この中の前秦王の苻堅(在位三五七~三八五年)が僧侶の 順道と仏像などを高句麗に送ったのが半島への仏教伝来のはじめである。

 苻堅は五胡十六国時代を代表するほど仏教に対する関心があった王であり、中国仏教史上、重要な人物である道安(三一二または三一四~三八五年)を 自分のもとに迎えたほか、訳経僧として有名な鳩摩羅什(三五〇?~四〇九?年)を獲得するため西域に兵を派遣していた。その苻堅から仏教を伝えられた高句 麗でも仏教が盛んになり、中国に数多くの留学僧を派遣したほか、聖徳太子の師となった慧慈(?~六二三年)をはじめとして、多くの僧侶が日本に来て活躍し た。

「後発」新羅の仏教吸収

 一方、百済には三八四年に仏教が伝来した。中国江南の東晋から摩羅難陀が来朝したことが契機であるという。摩羅難陀がどの国の僧侶であるかは明確 ではないが、百済の王が彼を宮中に迎えて礼敬したのが百済仏教のはじまりである。翌年には仏寺を創建し僧一〇人を得度させた。その後、六世紀半ばの聖明王 (在位五二三~五五四年)は日本に仏教を伝えた。その後、日羅などが日本に来て活躍した。

 仏教伝来が一番遅れたのが新羅であった。新羅への仏教伝来の年次は明確ではないが、公認されたのは六世紀になってからであり、他の二国に比べるとかなり遅い。

仏国寺の紫霞門
韓国・慶州にある仏国寺の紫霞門。
門前の石橋は8世紀の創建当時から伝わる。
写真 田村 仁

 仏教公認をめぐっては異次頓の殉教という話が伝わっている。法興王(在位五一四~五四〇年)の頃、群臣が奉仏に反対したなか、近臣の異次頓は、自 分の首を刎ねても仏教公認を行うように申し出た。ところが議論の結果、仏法の受け入れは実現せず、異次頓は処刑されることになった。異次頓の首が切られる と、溢れ出た血は白乳のように白く、しかもその首は飛んで金剛山頂に落ちた。こうして再び仏教に反対する者はいなくなったという。

 仏教を公認した後、新羅は急速な勢いで仏教を吸収していった。新羅仏教のキーワードは護国仏教であった。新羅の都、慶州に皇龍寺が建てられ、その九層の塔には一層ごとに、日本など当時新羅にとって危険な国や地域の名前が付されていたという。

  また新羅を代表する僧侶である円光(五三二~六三〇年頃)は、戦争にあたっての心構えを問うた者に対して、世俗の五戒を説いた。世俗の五戒と は、「1君に事えるに忠をもってす。2親に事えるに孝をもってす。3友と交わるに信をもってす。4戦いに臨んで退くことなかれ。5殺生に択ぶあり」の五つ であり、後半の二つに現実を直視した円光の思想が現れている。

 続いて慈蔵(五九〇頃~六五八年)は入唐し五台山で仏舎利を得て、新羅にもたらすと同時に、戒律の中心となる戒壇を設けた人物として知られてい る。新羅の護国仏教を支えたのは弥勒信仰を持つ花郎という集団であった。花郎とは、貴族の師弟が集まって交わる、いわば社交クラブであるが、弥勒信仰によ り支えられた組織であった。花郎たちは弥勒の降臨を願う歌を歌ったという。

 こうした新羅の仏教は、六六八年に半島を統一した後、教学の面でも東アジア世界の仏教に大きな影響を与えていくのであった。

(文・佐藤 厚 さとう・あつし 一九六七年、山形県生まれ。専門は中国・朝鮮仏教史、華厳学。東洋大学非常勤講師)