27号相国寺・金閣寺・銀閣寺

仏教新発見・第27号
『相国寺・金閣寺・銀閣寺』
発行:朝日新聞社
定価:580円

BACK NUMBER

第27回 日本への仏教伝来

日本への仏教伝来
イラスト ヨシザワスタジオ

 日本の仏教のはじまりを語る時に「公伝」という言葉が用いられる。この言葉には私的な伝来とは異なった、公の国家間の伝達を重視する意味があると思われる。「公伝」の記録のうち、『日本書紀』は五五二(欽明天皇十三)年に、百済の聖明王(聖王)が使いを遣わして仏像、経論、幡蓋を伝えたと記す。一方、『元興寺縁起』、『上宮聖徳法王帝説』は公伝の年次を五三八(宣化天皇三)年としている。現在のところ、『日本書紀』の仏教関連の記事には潤色が多く、史料的な価値は低いと考えられるため、五三八年説をとる見解が一般的である。ただ、この説も絶対というわけではなく、百済の記録を視野に入れて両説を再検討する見解も出されている。

 さて日本に仏教を伝えたのは百済であり、その背後には当時の朝鮮半島の情勢があった。百済は六世紀に入り、新羅の任那侵略に対処するため、日本と連携してその援助を受ける必要に迫られていた。その中で、継体天皇の時には五経博士を日本に送り、六世紀初めには仏教を伝え、文化的なつながりを深めようとしたと考えられる。このように百済の仏教伝来は外交政策の一環として行われた。ちなみに百済に仏教が伝来したのは三八四年であり、日本よりも百数十年も早い仏教先進国であった。

どのように受け入れたのか

台懐鎮の寺廟群
中国、五台山の中心部に位置する台懐鎮の寺廟群。
写真 田村 仁

 未知の外来文化を受容するときは、受容する側の既知の枠組みに従って行われる。日本が仏を受容するときの枠組みとしては日本古来の神があった。 『日本書紀』は、欽明天皇が仏像礼拝の可否について群臣に尋ねたとき、蘇我稲目は、西蕃の諸国がみな礼拝しているのに、わが国だけは背くわけにはいかないと答えた。これに対して物部尾輿と中臣鎌子はこれに反対し、わが国の天皇は天神地祇を祭拝してきたのに、それをやめて蕃神を拝めば、国神の怒りを招くであろうと述べたと伝える。このような日本古来の国神に対する外国の蕃神という発想が、仏教を捉える出発点であった。ちなみに中国の場合は黄帝や老子のイメージで仏を受容していた。

 さらに五六二年、日本との交流が深かった任那が新羅により滅ぼされると、朝廷は百済との結びつきをますます密にし、百済から五七七(敏達天皇六)年には、経論若干巻のほかに、律師、禅師、比丘尼、呪禁師や造仏工・造寺工が献上された。そして五八四(同十三)年には司馬達等の娘(善信尼)がはじめて出家した。派遣された僧侶が男性僧侶ではなく女性(比丘尼)であること、日本最初の出家者も女性であることが注目される。つまり、この時点では、仏教の僧侶はシャーマニズムの巫女と同様に考えられていたと思われる。このほか信仰の態度は治病・長寿など現世利益中心であり、仏教の高度な理論を理解していたのではない。

 仏教公伝から一五〇〇年あまりが過ぎたが、伝来当初は日本古来の神と同じレベルで捉えられた仏教に対する認識は、長い歴史の中で大きく変わったとも言えるであろうし、「神も仏も」と並び称されることを見ると、存外、現在でも根底では変わっていないのかもしれない。

 参考文献:曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』

(文・佐藤 厚 さとう・あつし 一九六七年、山形県生まれ。専門は中国・朝鮮仏教史、華厳学。東洋大学非常勤講師)