29号寛永寺・増上寺

仏教新発見・第29号
『寛永寺・増上寺』
発行:朝日新聞社
定価:580円

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第29回 南伝仏教との出会い

留学僧・渡来僧の系譜
イラスト ヨシザワスタジオ

 明治初期に神仏分離、廃仏毀釈の大激動を経験した日本の仏教者たちは、日本仏教再構築の手がかりを求めて世界各地へ赴いた。ある者はスリランカや東南アジア諸国で伝統的な南伝仏教の僧団と出会い、またある者はヨーロッパ各国で研究が進められていた南伝仏教のパーリ仏典と向かい合った。

 前者の代表として釈興然(一八四九~一九二四年)の名前を挙げなければならない。真言宗・三会寺で住職を務めていた興然にインド行きを勧めたのは、明治期の戒律復興運動の中心的人物、叔父の釈雲照であった。雲照は釈尊成道の地であるブッダガヤーが今でも保存されているということを聞きつけ、興然に高齢の自分の代わりにブッダガヤーに参詣するように依頼したのであった。

 インド訪問に先んじて一八八六(明治十九)年にスリランカに到着した興然は、三年以上にわたりその地でパーリ語学習、仏道修行に励んだ。そのようななか、釈尊以来の伝統を掲げる南伝仏教に次第に惹かれていった興然は、ついには日本から保ってきた戒律を捨て、南伝上座部の戒律を受けなおし、南伝上座部の僧侶となったのである。

 その後、インド・ブッダガヤーを訪れた興然は大いに感銘を受ける一方、その地がヒンドゥー教徒の所有地となっていたことに大きなショックを受けた。そこで、セイロン大菩提会の創始者・ダルマパーラ(一八六四~一九三三年)と協力して聖地を仏教徒の手に取り戻そうとしたが、目的を果たすことができなかった。

 さて、一八九三(明治二十六)年に日本に戻った興然は、南伝仏教の伝統を日本に移植・定着させようと考え、スリランカ風の黄色の袈裟をまとい、南伝上座部の戒律を守り続けた。また、日本でも南伝上座部の受戒を可能にするために、合計五人をスリランカに派遣し日本人比丘の育成を試みた。しかし、病に倒れる者や徴兵される者もあらわれるなど、思い描いていたようにいかず、南伝仏教日本移植の夢を果たすことなく釈興然は一九二四年に入寂した。

ヨーロッパからの吸収

夜明けを迎えるブッダガヤーの大塔
夜明けを迎えるインド、ブッダガヤーの大塔。数多くの近代日本の僧侶たちが、仏教の聖地を目指した。
写真 田村 仁

 一方、ヨーロッパに赴いた仏教者はヨーロッパで醸成された近代仏教学を通じて南伝仏教と向かい合った。彼らが出会ったもの、それはパーリ仏典であった。一九世紀にヨーロッパを訪れた南条文雄(一八四九~一九二七年)、高楠順次郎(一八六六~一九四五年)らは梵語(サンスクリット)仏典を学ぶ傍ら、パーリ仏典についても学んでいた。しかし、彼らは一方的に西洋から学問を吸収するだけではなく、西洋の研究者を唸らせる世界的な学問成果を次々と発表していったのである。当時の日本人研究者は漢訳文献に通じており、漢訳で伝わる北伝の経論とパーリ語で伝わる南伝の経論との比較研究は彼らの独壇場であった。

 日本に戻った彼らは、パーリ仏典の内容を日本の思想界に紹介した。その代表例が、一九三〇年から三六年にかけて高楠順次郎らによってなされた、パーリ三蔵すべての日本語訳、『南伝大蔵経』の出版である。高楠らの努力は実を結び、その後も多くの翻訳書、研究書、概説書が出版され、南伝仏教僧団で伝授されてきた初期経典の思想内容は、現在でも広く日本社会の知るところとなっているのである。

(文・鈴木健太 すずき・けんた 一九七四年、愛知県生まれ。専門は仏教学、インド仏教。著書に『「般若経典」を読む』(共著)など。東京大学COE研究員)