東大仏青の回顧と展望

小野 清一郎  1958年5月


東大仏青で戦後廃刊になっていた「仏教文化」が復刊されるということを聞いて、欣びに堪えない。復刊初号に原稿を求められたので、私の半生を賭けた東大仏青の過去を回顧し、将来への展望を叙してみたいとおもう。





東京大学仏教青年会は、私の記憶がまちがっていなければ、大正八年木村泰賢、白井成允、そして私の三人が主唱して創めたものである。東京(帝国)大学を中心とする仏教青年運動は明治三十年頃に始まっている。近角常観、沢柳政太郎その他の諸氏によって創められたと聞いているが、それは後に大日本仏教青年会となった。今日の日本仏教青年会連盟、各大学・各宗門などの仏教青年会はみなその脈を引いたものである。しかし、東大ではしばらくその影をひそめていた。東大仏青はそれを再興したものであるが、その後大正・昭和にかけて全学的な組織となったのみならず、外部に対しても有力な仏教団体としてその活動が、注目されるようになったのである。

大正八年といえば、第一次世界大戦後におけるわが邦の資本主義的経済の躍進時代であり、社会生活にも劃期的な変化が現れ、思想的に自由主義・民主主義(当時は「民本」主義といわれた)が強調され、さらに社会主義、社会運動の展開も始まっていたのである(大正七年米騒動、大正八年媾和、国際連盟の成立、大正九年わが邦最初のメーデー)。そうした動きのなかに東大内には国家主義的伝統と、近代化、自由主義化の傾向−これは東大においては「藩書取調所」以来の伝統であった−とが、微妙に反撥したりからみあったりしていた。そのことは、たとえば上杉・美濃部両教授の憲法論争などにおいて顕著であったし、一方において筧克彦教授の「古神道」論が評価され、他方において吉野作造教授の「民本主義」がもてはやされていたことによって窺われるであろう。そして、それがやがて大正八年における東大仏青誕生の思想的背景であった。

もちろん、東大仏青はあくまで仏教の立場に立つ集団である。しかし、仏教そのものが、一つの宗教であると同時に、その中に哲学的な世界観、社会観を含んでいることは明らかであり、仏教の立場に立つということは、それ自体一つの思想的立場に立つということでなければならない。少なくとも、初期の東大仏青の集りでは、よく思想批判的な議論が闘わされたものである。会員の中には、例えば三井甲之氏などの流れを汲む国家主義的傾向の強い人もあり、それとは全く反対に社会主義的傾向の人も少なくなかったが(服部之総、三枝博音氏なども初期の会員であつた)、大勢はやはり自由主義的であり、近代科学、近代思想と協調しつつ、しかも単なる近代化、単なる市民的自由主義化に満足せず、仏教思想の伝統のなかに、より根本的な思想の根拠を求めようとして苦悶していた、というのが事実である。





だから、東大仏青は初めから宗派的ではなかった。木村泰賢は曹洞宗の僧籍をもっていたが、高楠教授の愛弟子として当時原始仏教思想から大乗仏教思想へと、思想論的探求に傾倒していたし、白井成允は漢学者の息で、倫理学の助手としてカントの研究に没頭していたとおもう。私は法学部の助教授となったばかりで、牧野教授の社会法学的傾向を学び、同時に新カント派の法哲学に親しんだが、私の個人的体験はどうも法学部全体にあきたらぬものを感じ、印度哲学へ、仏教へ、それによる近代主義の修正ないしは超克へという大それた考え方にとりつかれていたことを告白しなければならない。中学時代すでに島地大等師によって仏教に接してはいたが、高等学校時代はむしろ近代文学とプロテスタンチズムとに関心をもちつづけ、大学二年のとき病気をした躓きがわずかに親鸞への信を決定したばかりであった。

だが、大正八年東大仏青創立時代の会員の意気はさかんなものであった。印哲、宗教の助手や学生の殆ど全部が熱意をもって参加したばかりでなく、文学部、法学部、さらには医学部、工学部、理学部からも会員として仏教思想についての研究、討論に参加した者が少なくなかった。春秋二期の学内講演会のときなどは、いつも当時の法学部三十五番教室(震災で焼失した)を一ぱいにする盛況であった。それは仏教の学問的−近代的な意味における、−研究を前提としつつ、しかもその精神を現代の生活に生かそうという実践的な意欲を示すものであった。「仏教精神の現代的展開」ということが初期東大仏青の目標であった。

かような若い学徒の運動に多大の関心を寄せて、これを支持し援助されたのは、高楠・村上の両教授であった。東大仏青が本郷三丁目に会館をもつようになったのは、主としてこの両先生の発願によるものであり、かつその尽力によるものであった。会館は、はじめ鉄筋コンクリートの建築とする計画であったが、大正十三、四年になると、経済界はすでに反動的な不況期に入り、予定の計画通りにはいかなくなり、木造モルタル塗の仮建築をすることになった。この計画変更で、会館建築は一応完成し、会館を根じろとする事業が着々進められたのであるが、その後昭和三、四年の金融パニックを契機として、不景気はいよいよ深刻となり、会館の事業に必要な経費を得る方法がなく、理事者の苦心は一と方ならぬものがあった。一時は全く事業を打ち切るほかないではないかとさえおもわれたのであったが、何とかもちこたえて、昭和二十年三月戦災による会館焼失に至るまで会館事業を継続したことは、歴代の理事長、理事、評議員、主事その他の人々の並々ならぬ努力によるものである。

(その経験からいって、会館を再建するについては、初めからその経済的運営の面を十分に考えてかからなければならないということである。会員が大学の職員と学生とである限り、会費によって事業を経営することは全く不可能であるし、経常費を同情者の寄附によってまかなうことも不可能に近い。会館を高層建築にして、しかもその五分の三又はそれ以上を適当な事務所、店舗等に賃貸し、その賃料によって経費の大半をまかなうようにするほかないとおもう。また講堂なども他の健全な使用に供するようにした方がよいとおもう。)





大正十四年から昭和二十年まで会館を拠点として行った事業について主なものをあげてみよう。仏教に関する公開公演、これは全期間を通じて毎週一回づつ継続的に行われ、少なからぬ効果を収めた。また毎週日曜日の朝には少年少女のための教育的集会をもった。これも継続して行われたが、戦争に突入する二、三年前、当局のきびしい国家的教育方針の下に放棄しなければならなかった。さらに継続的な社会事業として法律相談および健康相談、いずれも毎週二回、前者は法学部の教授が学生の希望者とともに一般市民の相談を受けたのであり、後者は医学部の教授がやはり学生を伴って一般市民の相談をうけたのである。これらは戦争が始まるまで続いた。これらの事業は大学と市民との接触という意味においても効果的であり、一般市民から親しまれ、また感謝もされた。なお会館に附属する木造二階建の寄宿舎があって、学生約十名が常時寄宿し、仏教的な雰囲気の裡に勉学すると同時に、会館主事の事務を手伝ってくれた。それらの人々はいま各方面に活躍している。私個人としても今日まで親しく交際している人が多い。

東大仏青の事業として大きな効果を遺しているのは、その編集・出版に関する事業である。まず東大仏青の機関雑誌として「仏教文化」が発刊されたことは、よく知られている。これは大体季刊であった。会員に配布するものであったが、会員外にも希望によって頒たれた。そのほか多くの図書が編集され、出版されたが、なかんずく大きなものは「仏教聖典」である。初版が昭和九年に出版され、その頒布は数万部に上った。そしてこれは、戦後新しいメンバーの努力によって、昭和三十年全面的な改訂版を出すことができた。さらに昭和十年ごろ「青年仏教叢書」というものが企劃され、十数冊を出版した。これは各冊それぞれ権威者の執筆を乞うて叢書としたもので、今日でも価値のあるものが少なくない。何とかして復刊したいものとおもう。その後昭和十五、六年頃「仏教思想講座」が企劃され、これも十冊近く出版したように記憶する(すべて戦災で失い、いま手許にないことを残念におもう)。これらの編集・出版の活動に至っては学内よりもむしろ学外において一層広く読まれ、また評価されたのではないかとおもう。





かようにしてわが東大仏青は、東大を中心として、全国青年学生の仏教への関心を高め、かつ現代におけるその正しい展開を目的として進んできた。それは青年学徒に対する思想的・実践的な指導の面において大きな意味があったのであり、現在においてさらに大きな意味をもっていると信ずる。東大仏青はあくまで仏教を根拠とする青年運動である。その意味で伝統を重んずる立場に立っている。しかしそれは、いたずらに仏教の形骸を保存しようというのではない。仏教の根本義、その根本精神を現代に生かそうとするのである。それは、近代の思想や生活形式を拒まない。しかし、単なる近代化、模放的な近代化に対して批判的である。自由主義・民主々義にせよ、社会主義・共産主義にせよ、われらはその観念的な体系に囚われることなく、より高次の人間性に立ちかえってそのそれぞれの意義を明らかにすると同時に、現実的な状況に応じて自由に正しい撰択をする。それは仏教の根本精神を生かすことにほかならない。私はそう信ずるのである。

東大仏青を回顧している間に、すでに与えられた頁数を超えてしまい、展望を書けなくなった。しかし、私の展望は回顧のなかに含まれている。新進の学生諸君によってさらに新しい展望と実践とが試みられることを祈ってペンをおくことにする。

(了)