仏青と私

村山 宏  1970年10月


前号で柴田先生が「仏青当時の想い出」という題で、昭和七年主事となられてから本建築期成会主事として活躍された昭和十二年までの仏青の姿を手短かに纏めて書いておられる。私が主事であったのは昭和十年一月から十二年二月迄であとを寺田元統君が引継いだ。私にとってこの二年余の歳月は非常に長いものであった。未熟な(当時二十四歳)私にとって仏青主事という仕事の内容は思いもかけぬものであった。まず第一に帳簿を記帳し算盤をもって収支を計算しなければならない会計事務等がそれであった。お蔭で私は商業簿記の権威佐々木道雄先生に記帳計算等を手をとって教えていただいた。また仏青活動についてもこれで良いのだろうかという疑問が常に湧き、かといって自分の考え方も確立しえないで悩んだ。又時代が日支事変突入直前の激動期でもあって、私は自分の心の動揺を制禦するのに苦しんだ。幸にも柴田先輩が一緒にいて何かと指導して下さったし、生活を共にした部員諸兄の協力と激励のお蔭で曲りなりに二年余りを勤めさせていただいた次第です。当時理事長だった長井先生、理事であった小野先生、宮本先生、故宇井先生、故橋田先生の御高恩をいまにして泌々味わせていただいている。想い出の中の二・三の私の姿を描いて、当時の東大仏青を偲んでいただこう。

私の父は地方銀行の支配人をしていたが、熾烈な念仏信者であった。私は幼少の頃から喘息もちで、父のように経済界や実業界で働くことは到底困難に思えた。父もその点はよく理解して、大学で印度哲学を専攻することを快く許してくれた。入学当時の大学は共産主義学生の運動が猛烈で学内は大きくゆさぶられていた。私は共産主義には共鳴できなかったが、網の目のように組織化されている資本主義社会の構造には反撥を感じた。昭和九年卒業の頃には学者の世界にも因循姑息なものを感じて不愉快だった。又既成仏教々団についても一度破壊されて再出発すべきものだと考えていた。つまり反体制の青年だった。−青年はいつの時代にも反体制のものなのかもしれない−そんな私を仏青が迎えてくれるという。私はそこにこそ私の生甲斐が見出せるのではないかと喜んだ。新しい仏教運動の萌しがそこから生まれるのではないか。そしてその運動のお手伝いができるのではないか、と空想しながら。

当時友松円諦先生を中心とする真理運動が仏教の大衆化運動として展開されていた。仏教をわかり易く説明して現代人の宗教として再認識しようという運動であって理事の宮本先生もこのメンバーの一人であった。私も仏教を僧侶の専有から解放し広く一般大衆の生活の糧とすることが必要だと考えていた。それではどうして大衆と密着させることができるであろうか。その一つの方法として仏教によって素地を培われた日本人の生活描写、或いは仏教々理をわかり易く現代的に表現するという狙いで仏教文化誌上に「仏教文学」の特輯を企画した。この企画について柴田先輩や堀一郎先輩(前東大教授)にお図りして賛成していただき、大野・伊藤両部員と張り切って編輯にかかったのだが、さて巻頭論文を誰にお願いしようかと迷った柴田先輩から岡本かの子先生を紹介していただいたのはその時だった。先生にお逢いしてお話ししているうちに巻頭論文はこの方にお願いしようと決心した。発刊後もこのことで二三の批判をいただいたが、私は自分の選択に自信をもっていた。この特輯号についての評価は区々だった。私自身も満足はできなかったが新しい試みが遂げられたことに仄かな喜びを味わった。先輩の結城令聞先生(現京都女子大学々長)から「思い切りやりなさい」と励ましをいただいたのが嬉しかった。昭和十一年の秋東大の大学祭に開催される仏青の学内公開講演に私は当時京大教授だった西田幾多郎先生をお招きしたいと考えた。西田先生は講演がお好きではないようで東大の学生で先生の御声咳に接したものは極めて少ないようだった。又西田哲学が仏教の思索と関連するものがあるように考えられたのでこの企画が成功すれば、東大学生の渇望を癒すこととなり、且仏青の講演としても適当であろうと考えた。当時先生は鎌倉の稲村崎にお住いだった。私が手紙でお願いの趣を申上げたところ先生から一度逢はうという御返事をいただいて、八月の暑い昼下り私は先生のお宅を訪れたが、ちょうど御散歩中であと一時間は戻られないとのことだった。私は茂みの中の小路を下って浜辺にでた。小学校の三年から五年まで鎌倉に住んだことのある私は、青い海を見ると泳ぎたいという欲望を抑えることができなくなり、木立の繁みに洋服を脱いで海にとびこんだ、一泳ぎして木蔭で休んでいると、和服にステッキをついた先生が浜辺を歩いてゆかれた。それから間もなくお宅の応接室で私は先生にお目にかかり、ぜひ学内公開講演をお引受け下さるようお願いした。先生は何度も固辞せられたが「東大の学生は先生にお目にかかることを渇望しています」という私の言葉に「健康の都合もあるし今月一杯考えさせて貰って御返事する」というお言葉をいただいてお別れした。八月の末日お断りの電話をうけて大変残念ではあったが、先生の現代の青年を想う静かな、考え深いお話は、長く私の心に感銘を与えた。講演は椎尾弁匡先生(現増上寺管長)にお引受け願ったが、当日私は「前途に希望も目標も持ちえない現代の青年学徒に、燈明を与えて下さい」と挨拶した。いつの時代も青年の不安は変りないように思う。

若い私に寂しさと空しさを味あわせてくれたのは維持会費の集金だった。成田の不動、川崎の大師等お賽銭の多い寺院に芳名帳を持って回った。一金弐拾円也、一金拾円也と書いて貰うと私はホッとした。同時に現代の寺院仏教のあり方や仏青活動についていろいろ想いをめぐらした。微力な私ではあるが自分の持つナマな力で社会に奉仕したいという内心のつき上げを感じた。日曜講演・日曜学校・聖典講義・法律相談・健康相談の各部の活動の価値は認めつつも、どん底の人間、罪悪深重な凡夫という足場に立って献身的な奉仕をするという行動から遊離した微温いもののように感じられて物足りなかった。又ある時は会員・特別会員の会合で日支事変突入についての仏教徒の立場、仏教は戦争を肯定することが許されるかどうかが討議された。「破邪顕正のつるぎ」「一殺多生の劔」という言葉が肯定論者から強調されていた。私はそれを身勝手な議論のように受けとめた。が日々に軍部の実力が政治をリードし、世論は次第に無力化して当面する現実を心ならずも肯定せざるを得ない情勢に進んで行った。私は夜ともなれば前田邸横のおでん屋で過す時間が多くなっていった。ある時は救世軍の情熱に憧れてアコージョンをひき東大仏青の歌を謳いながら本郷の裏町を歩いたこともあった。又ある時は寮生に早朝本郷通りの清掃を提案して苦笑を買ったこともあった。結局中途半端な自分が想うことだけでは自分の実行力以上に走っているという感じの日々だった。毎朝七時に読経することは寮生の日課だった。心経を読誦している時はこんな気持の持続が青年仏教徒の日常でなければならないと反省した。仏青活動についての自分の疑惑が昂じると私は屡々橋田邦彦先生のもとへ参じた。先生はいつも生理学の教授室で和やかに私の話を聞いて下さり共鳴もして下さった。慈父のような先生の背後の壁に雄渾な筆で「生死事大無常迅速」と書かれた二本の軸が垂れていた。

昭和十一年寛永寺の除夜の鐘を聞きながら私は小野先生に、未熟な自分にもうこれ以上仏青主事の仕事はつとまらないことを申上げて退職をお願いした。先生は私の私行についてもいろいろお聞きになっておられたであろうが、そうしたことには少しも触れられずにただ一言「君は道器でないね」とだけ仰言って私の我儘を聞き届けて下さった。昭和十二年三月私は住み馴れた本郷三丁目をあとにした。

それから八年たって日本は完敗した。橋田先生は戦争の責任を負うて自害された。私には今後の日本がどうなるのか予想もできなかった。ただ、小野先生からいただいた緑がかったモーニングのズボンを毎日ジャンパーの下にはいて、仏教精神だけは日本に、否世界に残りつづけるだろうと思った。主事をしていると冠婚葬祭に出席する機会が多いので小野先生が私にモーニングをお下げ渡し下さった。そのモーニングのズボンが私と仏青とをいつまでも繋いでいた。そして私は若い頃の仏青での一人よがりの悩みや苦しみが、諸先生に甘えた未熟な若者の我儘にすぎなかったと反省した。

私は戦時中から義兄の病院の管理を手伝っている。病院の業務を通じて伝教大師の「一隅を照す人」になりたいと念じている。その私の胸を強く打った最近の出来事に、東大仏青ニュースの「ベトナム援助活動特輯号」があった。ベトナムに行った学生のやり場のない腹立たしさに共感を覚えたからである。そして東大仏青が若人の情熱の真剣な道場であったことを教えられ、いつまでもそうあって欲しいと祈るものである。

(了)