『仏教文化 第2巻 第2号』
(昭和46年6月)
坐禅と瞑想 西 義雄
1 問題の所在
近時、国語の乱用が著しく、現時代は「言葉が死んでいく時代」などと言われるに至っている。言葉は人の思想や情意を他に伝え、文化を構成して行く上に誠に大切な道具である。この言葉の重要な特質は、それが自他に共通な意味を持つこと、換言すれば普遍性を持つことであろう。勿論、言葉には歴史的変遷もある。
しかしその歴史的変遷の客観性を明かにしうるのも、少くとも或る時代、或る領域における言葉の共通性の確定意義が認められていた上でこそ、なし得るであろう。ここで問題とする「坐禅と瞑想」に関する以下の論述も此に関連する。従来の禅僧の語録、特に公案などと言われるものを見ると、禅僧は何か言葉のかかる定義に拘わらぬような表現をなすようにも考えられ易いかも知れぬ。此の点は仏教の教相学と称せられる中、特に倶舎・唯識寺の法相学と対照的であるとせられる。然し、禅僧は徒らに決して言葉の乱用をなすものではない。換言すれば、ある言葉には、一定の流通しうる意味内容のあることを確実に把握した上でこそ、禅僧の発言が、修道者に対し、重要な作用を及ぼすのである。「狗子に仏性がある」か否かの趙州の答えとして、「無」と言われるが如きがこれを物語る。猫でも犬でも人は勿論「悉有仏性」ということが、実大乗仏教の普遍の教義であるのを了承していてこそ、時に敢えて「無」と答えることに重要な働きがある。溯って金剛般若経中の「仏土荘厳は仏土荘厳に非ず、この故に仏土荘厳と名づく」などという趣旨を、学者が「即非の論理」であるなどと言うのも、同趣旨である。
さてここに説こうとする「座禅と瞑想」と言うに関して、いかなる問題があるのか。筆者がここで「坐禅」という意義は、曹洞・臨済・黄檗などという禅宗の一般の通用語として、仏道の修証に必須と見られて来ている結跏又は半跏趺趺坐による正身端坐を意味する。これは「百丈清規」や「坐禅儀」、「普勧坐禅儀」乃至瑩山の「坐禅用心記」に厳格に規定されて居る行儀であるから、少くとも禅に志し、多少でもその実習の経験をもつ人々には、最初に指導される行儀坐法であろう。いわば禅入門の第一段階の行儀であり威儀でもある。
さて「瞑想」というのは、一般に「目をつぶって考える」ことを意味するのが常識であるが、一応これを漢語辞典にあたって見よう。諸橋氏の大漢和辞典で見ると、「瞑」の項に約10種程の義意が述べられている。略述すると、(1)目をつぶる(目を翕する)、(2)くらい(目がよく見えぬ、目不明)、(3)めくら(無目故称瞑)、(4)たみ(民者瞑也)、(5)ねむる(眠に通ず)、(6)くらい(眠に通ず)、(7)薬の毒にあたる。(8)瞑眩(めまい)、(9)眠に通ず、(10)よく見えぬ(従に通ず)云云と言い、従って「瞑坐」とは目をつぶって坐すること、「瞑士」とは盲人のこと、「瞑目」とは目をふさぐこと。この「瞑目」は多く、人が死に至った常態を示すにも用いられる。従ってこの「瞑想」も「目をつぶって考える」と註されてあり、その他の漢語辞典と同じである。これ等の記述は、「康熙字典」の説文に多く拠られていると思う。
さてこの「瞑想」の特徴は、(1)「目をつぶって」(2)「思惟し分別し思量する」と言う二条件が含意されている。(3)従って「瞑想」は行儀としては、寝そべっていても安楽椅子にいても、ほほづえをつきながらでもその身体的形態に関係ないと言う三条件が考えられる。今この3点を有する「瞑想」と、禅の清規などで明かにする「坐禅」とを比較すると、この3点に関する限り全く反対である。
先ず第3の行儀から言えば、「坐禅」者は、結跏又は半跏趺坐し、又もし乃至耳と肩と対し、鼻と臍と対し、身を正して端坐するを要する。
次に第1については目はつぶってはならないとする。「永平元禅師清規」でも「目は須らく正しく開くべし、張らず微ならず、瞼を以て瞳を掩うべからず」……「切に忌む眼を閉づることを、昏生ずればなり……」と厳格な教誡がなされておる。勅修百丈清規には、更にその根拠として法雲円通が「人の目を閉ぢて坐禅するを訶して、以って黒山の鬼窟と言った」と誡しめている。
第2の「瞑想」の思惟し分別し思量する即ち考えることに就いては、道元の「善勧坐禅儀」には「夫れ参禅とは……善悪を思わず。是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止めよ…久々に縁を忘ぜば、打成一片せん。これ坐禅の要術なり」といい、「永平元禅師清規」中には、「正身端坐して箇の不思慮底を思慮せよ、不思量底の思慮とは非思慮なり云云」と厳誡しており、「坐禅儀」にも「一切の善悪は都べて思量すること無く、念起れば警覚せよ…久々に縁を忘ぜば、自から…一片を成らん」…と言ってある。「打成一片」の義は、公案を課する禅者でも、修行者に向ってよく「なりきれ」「なりきれ」と注意するに通ずる。行者をして、主客一体、身心不二、自他一如の一味法界の打成一片の境涯を、早く自証せしめようとする慈悲の注意でもある。
以上の如きは、坐禅経験者にとっては、いろはの「い」に外ならないであろう。しかし同時に禅門では、この結跏趺坐による正身端坐の坐禅こそ菩薩の行ずる禅波羅蜜多の行儀であり、更に溯って、抑ゝ釈尊を菩提樹下に於て成道したときの行儀そのままであると確信し且つ信ぜしめようとしている。由来、禅門は仏々祖々の師嗣相承を尊び、釈迦仏と一体たらんと心掛け、即心即仏の実証を、坐禅の第一目標とするからである。然し?に研究すべき問題が起る。果して釈尊の菩提樹下の坐が、先述の如き禅門でいう「坐禅」と全く同じ行儀行法であったかどうか。
2 結跏趺坐には睡眠等の蓋を除くこと
原始仏教より部派仏教を経て、大乗に至る間の現存のインド撰述の文献には、「坐禅」につき禅門の諸清規の如く纒った叙述をしているものは見出し難い。この故に、以下は、結跏趺坐又は坐禅の行儀に関する重な記録を経論中から抄出して、その展開を研究して見たいと思う。
(1)律の大品の最初に「世尊は菩提樹下に於いて結跏趺坐し(pallaGkam Abhujati)たるまま、七日間解脱の楽を受けて坐せり(mahAvagga. p.1)と。此の文は大義釈註(p.476)にも挙げており、部派仏教では大毘婆沙論巻182、頁913下」に「菩薩は菩提樹下に詣で、自から草座を敷きて結跏趺坐して是の如き誓を立つ、『われ今、要らず此座を起たずして魔の軍衆を降し、諸漏を永尽し、無上正等菩提を証取すべし』と言ったとしている。次に中部経では釈尊の弟子の弟子舎利弗も亦、「身を端正に面前に念をおき、結跏趺坐して、『われは無取著にして漏より心を解脱するに至らざる限り、此の結跏趺坐を解かず』と決意せり」(M.I.p.219)と言っておる。大智度論巻7でも、「仏は弟子に教えて結跏趺坐せしむ。……結跏趺坐とは……心身を直くせば、心を正し易きが故なり。其の身直く坐せば則ち心、嬾ならず、端心正意にして念を?ぐに前に在り云云」(大正25、頁111、中・上)とて王三昧三昧に入る坐の準備行儀を明かにし、又、婆沙論巻39におけると同様にこの坐禅行儀は外道輩の行法と全く異なる旨を述べている。
以上の諸文は、釈尊及び弟子達が、修道の第一要件として結跏趺坐により心身を端正にすべきことを、阿含や律が記しておること、又、それを有力な部派や初期大乗が伝持して来ていることの証拠と言えよう。
次にこの修行者の行儀として、睡眠を厳に避くべき義については、スッタニパータ925−6頌に
「静慮してあれ(jhAyI)、うろうろするな
後悔をはなれ、なまけてはならぬ。
それから音のせぬ坐臥所に
比丘は住すべきである」(925)
「眠を多くとるな、
熱心に警悟(jAgariyam 不眠とも覚醒ともいう )をなせ
個怠と撤と笑戯と婬欲とおしゃれとを捨てよ」(926)
という如く修行者が眠ったり怠けたりしうないように、不断の覚醒が要請されており,又、睡眠は五蓋の一つとして、禅定にいるものは必ず除くべきことを、多くの経典や論は説いている。
「聖行者は結跏趺坐し、貧欲坂意を捨てて心を浄化し、?沈睡眠を捨て、此を離れて住し、正念正智ありて?沈睡眠より心を浄化し、調掉(挙悔)・(悪作)と疑惑とを捨て、心を浄化せよ」(抄要)(D.I.p.71; MI.p.181; 269; 274~ 5)等。
この注意は例せば、大毘婆沙論などにも結跏趺坐を語るときに詳細に述べている(大正27、頁205上―206下)。
以上の如く特に結跏趺坐により正身端坐し、坐禅するものは、出来る限り昏眠に隨しないように注意し、五蓋煩悩の一部としての睡眠は亦是れ前と同様に禅定の障蓋として厳しく、これが断除を要請しているのである。
しかし、坐禅中、「瞑想」に於けるが如く、眼は閉じてよいのか、開いているべきかに就いては、未だ触れる所がない。従ってこの問題の解明は、後世の、特に、坐禅に関する経論の記録を俟たねばならぬ。
3 坐禅行儀における開眼と閉眼
特に坐禅儀に関して、その行法を主説する経論類も少くないが、便宜上、坐禅人が入定の準備加行中、或は入禅中に於て、開眼と閉眼とに関説する経論の文のみを、諸の禅経類の中から、今は漢訳年代順に取り上げて見ることとしよう。
先ず安世高(中国には148−171頃活動)の訳した、道地経には、「譬へば行者が髑髏を見て熟して諦視するときの如し。若しくは開目して見る如く、閉目しても亦見ること亦爾かり、異ることなき、是を応に止とすべし、若し分別して頭骨の異り、領骨の異り……膝足骨を観ず。是の如きを観となす云云」と言っておる。これは骨鎖観にて入定する初心者の在り方を示している。
此の道地経文に当る所を竺法護(230−308)訳なる「修行道地経」巻5に見ると、「其れ修行者の人の身骸を観ずるや、前に在ると後に在ると等しくして異ること無し。開目なると閉目なると、之を観ずること同等なる。是を謂って寂(止)と為す。尋いで便ち、頭と頸と異処なり、手足は各別なり、……骨節の支解けて一処に散ずと思惟する。是を謂って観となす。此の骨鎖の身は四事に因りて長ず「即ち」飲食と愛欲と睡眠と罪福〔業〕との所縁の生ずるものにして、皆、〔これ〕無常・苦・空・非身に帥す。不浄なる朽の積るものは悉く無所有なりとする。是を謂って観と為す云云」(大正15、頁211下−212上)。勿論、坐禅人の入定の準備は行位の過程であり、行儀に関しては、身心倶に定まる者となることで、そは、心身端正即ち身は結跏趺坐し政直端正なること譬えば柱樹の未だ曾て動揺せざるが如くになり、心に放逸なく、内外、皆、寂となり、外の諸因縁に走らざるに至るべきこと、即ち「其の身心が倶に定まり、内外に不放逸となりて、寂然、結跏趺坐し、柱の定んで傾けがたきが如くなり、生死を見て諦むること、水に漂う岸樹の如しとすれば、身と心とは相応し、疾かに道を感じ得果す」と言っている(大正15頁195下―196上参照)
次に鳩摩羅什の「禅秘法要経」には、三十観法を明かにしておるが、その中、第一(初制)の?念法について、仏が迦締羅難陀に言う、「沙門法とは、応に静処に当り、尼師坦(坐具)を敷き、結跏趺坐し、衣服を斉整して正身端坐し、偏え右肩を祖ぎ、左手を右手の上に著け、目を閉じ、舌を以て齶を?え、心を定めて住し分散せしめず、先ず念を?ぐに左脚の大指上に著け、指の半節を諦観して泡の起れる想を作せ云云」(大正15頁243、中)といい、更に念仏観について阿難に対して、「仏を念ずることを以て、諸の業障・報障・煩悩障を除くべし。念仏者は、先ず端坐し、叉手し、閉眼し、舌を挙げて齶に向け、一心に繋念し、心心を相注ぎて分散せしめず、心既に定まり巳れば、先ず当に像を観ずべし。云云」といい「観仏三昧」或は「念仏定」として詳説している(大正15、頁255、上―256下)参照。次にパントカ比丘に対して正観法を説く中にも、「一心端坐して、叉手閉目し、身に意を摂して慎しんで放逸なからしめよ」(大正15、頁258、下)といい、又、阿難に対して「観灌頂」に関して説述するに際しても、叉手し閉目して一心端坐し、頂上より自らの身内を観じ、骨想を見ず。出定入定に、自ら己身を見云云」(大正15、頁260、中―)と言っている。勿論、、最后文に、この三十観法等をなす凡ての行者が、4種の悪を離るべきことを示し、第1に犯戒を離れ、第2に慣閙を遠ざけ、第3に掃除して障罪を除き、第4に昼夜6時に常坐して臥せず睡眠を楽まざれ」ととき、注意している。(大正15、頁267下、―268上)。
次に「五門禅経要用法」を見よう。此は第4世紀の人で世親の師とされる仏陀蜜多の著で、曇摩蜜多(〜442、87才滅)の訳とされている。此の中には、禅定に入る安般・不浄・慈心・観縁・念仏の五門の行法に就いて述べている。その中、念仏三昧を行ずるについて、「若し心の没せる者ならば教ゆるに念仏を以てする。若し人、善心を有して巳来、未だ念仏三昧せざる者ならば、教えて一心に仏を観ぜしむべし。若し仏を観ずる時は、当に至心に仏の相好を観ぜしむべし、云云、分明に諦了し巳れば、然る後に閉目し、〔相好を〕憶念し心に在らしむ。若し〔仏の相好〕が不明了ならば。還って開目して極めて心に明了ならしめ、然る後、坐に還って身を正し意を正して念を繋ぐこと前に在り、真仏に対するが如く明了にし異りなからしむ云云」といっている。此の文中には念仏三昧の在り方につき、開目と閉目の使い方が、可なり判然としているし、「坐に還りて身を正し意を正しくするとは、結跏(又は半跏)趺坐して正身端する坐に在ることを示している。
最后に禅定の修行の38種の方法を最も詳細に且つ組織的に述べている「解脱道論」の記述を見よう。この論は周知の如く、僧伽愧陀羅(440頃)訳の「善見律毘婆沙」にも静道経又は浄道毘婆沙などの名で引証されており、第5世の人と考えられる仏音(ブッダゴーシャ)が、この論を底本として清浄道論を撰述したと言われ、可なり権威を斯界に認められていた論であって、その源流本は23世紀以前に既に流通していたものと考えられる。
勿論、大乗的書入れも見られるが、ここに引用する文は、大乗流通以前の観行方法と推定しうるし、素朴なマンダラの構成法などを説く点で、興味ある論書である。
此の中には先ず禅の外行即ち禅に入る準備的加行として「地一切入」の観じ方を具体的に説明している。先ずマンダラの作り方を述べ、次で、諸種の欲の過患を観じて出離の功徳を明観するよう、坐禅に入るものの心の準備をなさしめ、信を生じ恭教の念を起し、なす可きことと作す可からざるを心得るべしと説き、次に仏・菩提・僧を念じて善行をなすに勇猛たるべしと誡める。しかして後に、マンダラを去ること不遠、不近に……応に坐具を安んじ、マンダラに対し、結跏趺坐し、身をして平正ならしむべし。内心に念起らば眼を閉ぢること小時にして身心の乱れを除け。一切の心を摂して一心を成ぜば、少しく眼を開き、髣髴としてマンダラを観ぜよという。かくて、彼の坐禅人は、現にマンダラを観ずるのであるが、その時、三行を以て相を取るべきである。三行とは、(1)等観の行。(2)方便行。(3)乱を離れる行であるという。この中、等観の行とは、坐禅人が現にマンダラを観ずるとき大に眼を開くに非ず、大に眼を閉づるに非ずして、当に観ずべきをいう。その所以は、若し大に眼を開けば其の眼は惓を感じ、マンダラの自性や現見の自性の彼分相即ち(閉眼して、開眼のときと同等に観相すること)が起らないからである。又、「若しすべて眼を閉ぢてマンダラを見ば、闇を生じ亦、彼の相をも見ずして、懈怠を生ずればなり。是の故に、応に大いに眼を開くことと、大に眼を閉づることとを離れ、〔等観により〕唯、専心してマンダラに住ずべし」……という。……かくして、「彼の坐禅人がマンダラを観ずれば、其の定相がマンダラに依りて起るを見よう。是の故に、観ずるには、当に等観によりて相を取るべし云云」大正32、頁413中)といっている。(?で方便行と離乱については今は省略したい)
以上の如く、中国に禅宗が起るまでに飜訳された坐禅に入るための準備に関する経録を抄要して来て見て感ぜられることは、インドで作られた経論中には、結跏趺坐や半跏趺坐に関する詳細は、殆んど省略されておることで、僅かに羅什訳の「禅秘法要経」の?心法中に、衣服の斉整とか叉手とか、舌を以て?を柱えることとか、正身端坐までの有り方が、とびとびに記述されているに過ぎないことが明かである。勿論、これは、修禅者が不浄観又は骨領観乃至マンダラ観とか念仏相好観をなす前に、正身端坐し心身安定即ち正身正意するためのいはば準備加行でなければならぬ。さて問題の開眼か閉眼かも、不浄観をなす準備として怺ヤに至り死屍の変化の実相を観ずるときや、仏の相好(これは多分に仏像)を観ずる最初は、どうしても開眼でなければならぬが、その「彼分相」をとる時は閉眼して、その現に見た通りに眼を閉ざしても、明了に不浄想なり仏の相好を想い浮べるに至らなければならないであろう。
此の間の経過は「五問禅経要用法」就中、解説道論の記述で、坐禅における開眼と閉眼との関係意義が明かに理解されてくる。又、修行道地経の「目は開目と閉目と等同となる」との意味も、解脱道論の「等観による」という説明で、凡て判明する。かく見てくれば、「禅秘法要経」の「閉眼」とのみあるのは、その前后を省略したのか或は前后の文句を脱落したか、何れかの記録と見ることが出来よう。要するに原始仏教以来、坐禅人が昏睡や睡眠蓋に防げられない正身端坐の姿正をとることこそ、修行人に重要な注意でなければならないから、結局、開眼か閉眼かの問題は、「等観」により微かに眼を開くことをさし、又、全然、眼を閉じることをさけて、昏暗や睡眠に隨在することがないように、且つ髣髴としてマンダラ又は仏相好を観ずるに到ることが、大切な注意とされていたことと結論されよう。
4 天台智の小止観の記録について
憶うに、インドに於ける結跏趺坐等に関する省略は、修行道地経も達磨多羅禅経と共に梵名を(yogAcAra-bhUmi 即ち瑜伽行地又は瑜伽地)とされているが如く、又、既に毘婆沙師などにも周ねくその存在が知られていて、旧訳では禅行者とも行禅者、修行者、行者とも言われていた坐禅の実践者達の記録である所から見て、結跏趺坐の如き日常行事は伝承的に既に分りきっていた事で、必ずして殊更、説明を要しなかったのであろう。然し一度、「坐禅」の伝承を有しない中国に入るや、結跏趺坐をはじめ「坐禅」の行儀行法は逐一詳細に記述しなければならなかった。其の最も古く代表的論著の一が、天台智の「修習止観禅法要」即ち「小止観」であろう。此の中に「棄蓋第三」中の端坐修禅には、先述の五蓋を棄捨すべきを詳細に述べ、特に次の「調和第四」……の文中は、後の禅門の諸規定の底本となる文章が存していることは、周知の如くである。ただし注意して読むべき個所がある。即ち百丈清規などでは前述の如く目については、「目は須らく微かに開きて昏睡を致すことを免るべし」の如く、殊更開眼につき注意している所を、小止観では「当閉眼、纔令断外光而巳」(大正46、頁465下)とあり、「釈禅波羅蜜次弟法門」(大正46、頁489下)にも同文があって、此の点は、禅秘法要経の所説を継いでいるかの如くに思われる記述がある点である。しかし、この「小止観」の坐禅の行儀を殆んどそのまま引用している賢首法蔵の起信論義記巻下未の若修止者以下では、「次閉眼不令全合、広如天台禅師二巻止観中説也云云」といって、眼を閉ずるも、全に〔まぶたを〕合せしめざるなりと注意している(大正44、頁283、中)。更に「天台智者大師禅門口訣」を見ると、「次漸平視、徐徐細閉目、勿令眼瞼大急、当使眼中朧々然」(大正46、頁581、中)と言ってある。若し賢首の注意する点を重視するときは、智の「当閉眼云云」は、当に眼を閉ずること纔かに外光を断ぜしむのみなるべし」で、即ち眼は全閉せず、眼中おぼろに、見て見ず、見ずして見るが如くせよとの意とも解せられる。但し、出定時の記述を見ると、「摩手令暖、以?両眼、然后開之」とあるから、智の真意は、何れに在ったか、尚、判明しがたい。賢首の前に、新羅の元暁もその著「起信論疏」巻下、中(大正44、頁222、下に、やはり、この「小止観の全跏に関する文を引用しているけれども、この中には閉目開目には触れてないから賢首の注意と同等であったか否かは、目下の所、確かめられない。しかし、「小止観」では、対境修止観もあり、「六根門中修止観」も説かれている。この両者の止観を修するときは何れも開眼して境を見、或は色を見ながら、止観を修すべきを説いている。従って、止観の準備加行中に於ては、時に閉眼して彼分相を修し又は心を安定にすることがあっても、閉目開目等同、或は解脱道論の如く「等観」すること、即ち微細に開眼し朧々然となるのが、坐禅人の入禅定の真姿としたのではなかろうか。羅什も智も偉大なる仏教学者であるが、真に坐禅専門の在り方については、やはり中国では后の時代を待たねばならなかったのではないか。况して、後に、行も亦禅、坐も亦禅などというに到るが、万一行禅をなすとき全く閉眼では、危険この上もないであろう。インドに於て、正しく嗣法した菩提達摩が来って中国人なる二袒慧可などに坐禅行儀を伝えるに至って、始めて、真の坐禅による生活が、明かにされるに至ったと言わねばならぬかも知れぬ。坐禅するとき、文字通り閉眼しておれば、不知不識の間に、坐禅者の最も避くべき昏睡、睡眠に隨するに至ることを避け難い。筆者も机の前に坐し読書又は執筆に向うときは、必ず正身端坐の結跏又は半跏趺坐によることを過去、五十余年間の習慣としておるが、長い時間の汽車などでも、この坐禅によって、この退屈な時を切り抜けることも楠ゝであった、がその際も、閉眼するときには、何時の間にか居眠りに陥った、にがい数次の経験がある。
以上は、坐禅人が、開眼か閉眼すべきかにつきての論攻に片より過ぎたきらいがあったが、経類の記述にも種々問題があるので、思わず、詳論した。しかし要は坐禅人が、盲目禅、めくら禅、居ねむり禅、鬼窟禅に陥入らないことを希望したからに外ならない。尚、インド以来の仏や菩薩の坐禅像にも、盲目のもの、眼をつぶっている姿のものはないことも又、注意してよいのではないか。
5 jhAna(dhyAna)の訳語について
以上、「坐禅」には第1に、坐睡、居眠りをさけること、これが「等観」すべしとする理由なること、第2、坐禅は非思慮底となりて分別思想憶想を起え、速かに主客一体、自他不二、身心一如の打成一片となり、身心脱落、脱落身心となり、或は見性して随処為主たるべき目標を有すること、第3に、坐禅は必ず、結跏又は半跏趺坐による正身端坐して正身正意するという、行儀・威儀を具足すべきこと、以上の如き3点が必須で、かかる身的威儀に関せず、目をつぶって疑いもし思惟し憶想し分列もする「瞑想」とは、その本質を全く異にすることを述べて来た。
然かもこの「坐禅」の本義は、現存の結跏趺坐に関する経律論等の記録を探求する限り、釈尊の菩提樹下の大悟に於ける結跏趺坐に通ずるものであり、この行儀を禅行者ユガ行者等が菩提達摩あたりまで比較的忠実に伝承して来たものと推定することが出来よう。昔日のインドでは、夜の時刻は「よいの明星」、「暁の明星」などにより、推定したものと考えられる。かく見てくれば、釈尊が初夜、中夜をえて後夜に至り即ち「暁の明星を見て大悟した」という伝承も、極く自然に肯定し得るのでないか。
諸法の相を整理した阿毘達磨仏教における四禅那(dhyAna, jhAna)における、又、六度中の禅波羅蜜に於ける「坐禅」に就いても、われわれは、その語義を失わないように、これを理解し実行して、後世に正しく伝える文化的義務があろう。
われわれ南伝大蔵経の飜訳に携ったものは、斯る大切な仏教独特の術語の訳には、高楠先生、長井先生はじめ可なり深い考慮を以て、担当訳者に注意されたことを想起する。此の中 jhAna' jhayin, jhAnatha, jhAnato などの語には決して「瞑想」などという大変な語解を生み易い飜訳はしていなかったように思う。外道に通ずるyoga の場合は或は瞑想と訳した所もあるかも知れない。即ち止観均等なる jhAna は「静慮又は禅」、 jhAyati は「静慮する或は禅思をなす」などとし、jhAyinは「静慮者、禅定者、禅師、禅思者」などとし、jhAnatha は「禅せよ」、jhAnato は「禅思しつゝ」などと訳したのではなかったか。斯る点に興味を有する研究者や学生諸君は一応、パーリ文と対比しつつ詳細に検出されるのも一興であろう。
然るに最近、一流の高い地位にある仏教学者などの中には、敢えて、この「坐禅」即ち結跏趺坐による正身端坐の禅定方法を、「瞑想」とし、或は瞑想方法と同一視して用いて飜訳したり、紹介したりしている人々がある。勿論、外国学者で、仏伝や原始仏教研究者などの中には、従来、これを meditation 又は contemplation などの文字で表現している学者も尠くなかった。従ってこれ等の和訳としては、「瞑想」と飜ずることも強ち間違いではなかったであろう。
しかし、現在では、外国学者の中にも「禅」に興味をもち、禅を Zen として学習し、参禅しようとし、なれないのに拘らず敢えて結跏又は半跏趺坐をしようと努力して人々もある時代になっているのに、日本の仏教関係の専門学者で、多少でも「坐禅」を知って居らねばならぬ地位の人々が、今更、敢えて如上の正身端生の坐禅によるべきを誤解し易い「瞑想」による、と飜ずる不注意を犯す必要はなかろうと思う。
今後の研究者のために、原始経典中で、この点に注目すべき経類をあげておこう。例せばスッタニパータ、221頌、709頌等、長老偈519頌から526頌などである。尚、中部経典第1巻(MI.pp.212~219)には、舎利弗に対し禅定を重視することを教ゆる仏語の中に paTisallANa という語がある。これは従来、「宴坐」又は「宴黙」と飜せられた語で、「坐禅は安楽の法門なり」とする意を充分内含する訳語である。特に維摩経中に、維磨居士から舎利弗がコッピドクやっつけられるのが、この「宴坐」の真義に関してであり重要な仏教術語となっている。これを「独坐の瞑想」と飜じたのでは、舎利弗や維磨が泣きはしないであろうか。又、 jhAna は単に精神のみの集注でないことについても、禅坐の行儀威儀から反省しして見る必要のあることを附言しておきたい。
(にしぎゆう・東洋大名誉教授)