想いだすことなど

武宮 礼一  1971年10月25日


横山主事さんから、「想い出」を書けとのご依頼をいただいて、直ちにハイと承知致しました。というのは、実はこの前にもご命令を受け承諾しておいたのでしたが、学園紛争に取りまぎれて、その責を果していなかったので、その償いの気持でした。しかし今回も〆切ぎりぎりを、お盆帰りの旅中というわけで、資料もなく、記憶もさだかではありませんので、まさしく、個人的な想い出などで、ご免を被らせていただきます。

私の主事時代で、最も記憶に残っているのは、何といっても、財団法人への移行問題です。その法的手続きに於て、東大仏青の土地建物の不動産の所有者名義が、初代理事長・渡辺海旭のままであったことが、一大難関でした。何しろ歴代理事長がお偉方ばかりであったせいか、その間の事務的なというか書類的なというか、その引継ぎが全くなされていなかったのです。しかもその名義は渡辺師の個人名義であり、渡辺師はご存知のように、生涯独身であられたのですから、所有権の移転のしてみようがないという訳です。このことについては当時の理事長・小野清一郎博士にも名案が浮ばないらしく、印哲出の私が、いくら六法全書をくってみても、解決策が出よう筈がありません。思いあまって私は、末弘厳太郎教授にご相談申したところ、そうか、それは君、いくらジタバタしても駄目だね、国庫没収より外ないよとの、つれないご返事しか頂けませんでした。しかも教授はこのことをご講義の例にとって、あそこの東大仏青屋敷は、幽霊屋敷で、やがて国庫没収ものだよといわれたとか、いわれぬとか、しきりに私の耳にはいってきます。私はじっとしていられなくなって、誰彼の専門家にもたずねてみましたが、らちがあきません。遂に私は本郷区役所の係の事務官に、ひそかに事の次第をうちあけて、何とか便法ないものでしょうかと相談しました。その時の事務官のコトバは、「あなたのところには、そうそうたる法律学者が何人もいらっしゃるではありませんか、私なんか」という皮肉たっぷりの一言だけで、あとはニヤニヤ顔です。全くとりつく島もありませんでした。

それからの経過はここに略しますが、結局、渡辺海旭名の届出での際、東大仏青理事長の片書きが落ちていたという、十数年をさかのぼっての誤記訂正願いを出し、東大仏青理事長渡辺海旭名に先ず直して、それから次の理事長へ、又次の理事長へと順次に引継がれたことを証する歴代理事長の実印をもらうということでおちついたわけですが、印哲を出たばかりの私には、法律というか、六法全書が恨めしくてしようがありませんでした。それで私は、財団法人東大仏青第一回理事会の席上で「六法全書ぐらいバカげた書物はない」と放言してしまいました。すると小野博士曰くです。「それは君、お経ぐらいバカげた書物もないが、又これくらい深遠な書物もない、それと同じだよ」と。今も私は鮮かにこのおコトバを憶えています。

財団法人のための寄付集めも一仕事でしたが、これには笑えぬ話がいくつかあります。その一つ、小野先生にはご免なさい。ある証券会社々長から多額のお金をいただく一切の打合せがすみましたので、定められた時間に小野先生のお伴をして参りました。途上で、私は前もって先生に今日おあいする社長さんは、とてもお若い方ですからと申しあげておいた筈でしたが、いよいよその若い社長さんから小切手が出され、先生はそれを珠数かけて合掌していただいて下さったまではよかったのですが、別れ際において「どうぞ社長さんにも宜しく」との一言がつけ加えられてしまいました。私は思わずヒヤリとして、取り返されぬうちに逃げるが勝と、そそくさと引上げたことなど、今は懐しい憶い出です。

閑話休題。その頃は仏青会員の各学部学生が会館に十名位、寐食を共にしていまして、法律相談・健康相談・日曜講演・日曜学校等を開設して、仏道を実践しつつ、仏教を学習する道がとられていました。法律相談は、小野先生で、毎年一回のご自宅での、近角常音先生を招いての報恩講の集いも有難く、健康相談部は故橋田邦彦先生中心で、正法眼蔵釈意を承るなど、夫々佳き師のもとに、皆なピチピチ動いていたものです。日曜講演では、各宗各大学の碩学とともに、倉田百三氏が「生きんとての会」で常に若い女性に囲まれておられた風景、岡本かの子女史のおかっぱ頭、友松円諦師、高神覚昇師の名調子など、まことに百花瞭乱で、それが編輯されては、あの黄表紙の吉田竜英編『仏教思想講座』になっていったのですから、この本は、私にとっては、お教えの書であるとともに、想い出のアルバムでもあります。

先年、札幌のある会合で、道警本部長の挨拶というので、壇上の人を見つめていましたところ、確かどこかでそのお顔に見覚えがある、プログラムを開いてみましたら、藤沢言雄と出て来ました。あっ、あの東大仏青時代の学生、藤沢君かという訳で、会後直ちに奇遇を喜び合い、その後は時折、文通もしていることですが、今の東大教育学部教授、仲 新氏もその頃、日曜学校担当の学生でしたし、法務省の安田道夫氏は法律相談部学生、そして誰々はこうだった、ああだったと、名簿さえあれば、色々な逸話や、想い出話が出来そうです。

私の主事時代は、突然の赤紙召集で打切られました。そしてその後事は、白川良純氏に託されましたが、その間、大変なご迷惑をおかけしましたことは、今もって懺愧にたえません。二等兵生活中も、学問のこと仏青のことが忘れられず、又帰るつもりで上野美校の近く、谷中の借家に本はおいたままだったのですが、仏青会館の方が、より安全ではなかろうかと兵隊中に考えて、わざわざ長崎の兄に上京してもらって、谷中から会館の方に、全蔵書と二三の論文、学生時代のアルバム等を移転保管したことでしたが、それが皮肉にも谷中の家は今もなおありますのに、蔵書論文は会館と共に、あの業火に永遠に消え失せてしまったという訳です。

しかし今は、それが私に一つの「転」を与えてくれたものと受けとめていますので、恨みはさらさらなく、やはり上京すると、ちょっとでも、今の堂々たる信販ビル内東大仏青に立ちよっては、往時を懐しむのを常としています。

全く個人的な昔話になってしまって恐縮でした。ご免なさい。

(たけみやのりかず・当時帯広大谷短大学長)

(了)