第7回 仏教東漸史 北伝仏教-チベット-
北伝仏教-チベット-
最後にチベット系の北伝仏教ですが、チベットに仏教が本格的に伝わったのは、ソンツェンガムポ王(581-649年頃)の時代のことです。 ソンツェンガムポ王はチベット国内を統一すると、隣国インドと中国の進んだ文化を導入することを企図し、それにともなって仏教がインドに伝わりました。 その後ティソンデツェン王(742-797年頃)の時代には、インドから大学僧シャーンタラクシタを招き、サムイェーに寺院を建立して、仏典翻訳事業も行なわれました。 またこのとき、初めてチベット人に具足(ぐそく)戒(かい)が授けられました。このサムイェー寺で、インド仏教と中国仏教のどちらをチベットの国教とするかを決する議論が行なわれました。 これをサムイェーの宗論といい、インド側からはシャーンタラクシタの弟子カマラシーラが、中国側からは大乗和尚といわれる禅僧が参加しました。 最終的に国王による決定がなされた結果、インド仏教とくに龍樹の中観哲学がチベット仏教正統と認められました。この後仏典のチベット語への翻訳が盛んになり、 マハーヴュトパッティなどの欽定翻訳語集も編纂されました(814年頃)。しかしながら、仏教保護政策の行き過ぎが反感を招いて仏教排斥運動がおこり、 ソンツェンガムポ王の王朝が842年に滅びチベットが小国分立の時代になると、僧院が一部破壊されチベットの仏教は一時衰退してしまいました。 この衰退以前の仏教伝播を「前伝」といいます。
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10世紀末に西チベットの諸王の間で仏教復興運動が起こりました。この仏教復興運動以後の仏教伝播を「後伝」といいます。 チベット人翻訳僧リンチェンサンポの活躍と、インドの学問寺であるヴィクラマシーラ寺の学頭アティシャのチベット招聘(しょうへい)(1042年) などによって正統仏教は再興されました。また、インドのヴィクラマシーラ寺最後の僧院長であるシャーキャシュリーバドラはイスラム教徒に追われてチベットに入り、 インド仏教最後の伝統をチベットに伝えました。
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この後、チベット仏教は近隣のネパールやブータン、またモンゴル人や満州族の間にも広まりました。 チベット仏教サキャ派の僧侶であるパクパ(1235-1280年頃)は元朝のフビライ・ハーンの帝師となって影響力を強めました。 その後、ゲルク派の第三代目ダライ・ラマ(1453-1488年)によってモンゴルのアルタン・ハンが仏教に帰依し、全モンゴル氏族がチベット仏教徒となって現在に至っています。
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〈参考文献〉
平川彰『インド仏教史』上、春秋社、1974年
早島鏡正監修『仏教・インド思想事典』春秋社、1987年
長尾雅人、他『チベット仏教』岩波講座東洋思想第十一巻、岩波書店、1989年
末木文美士監修『雑学三分間ビジュアル図解シリーズ 仏教』PHP研究所、2005年
菅沼晃博士古稀記念論文集刊行会編『インド哲学仏教学への誘い』大東出版社、2005年
リチャード・F・ゴンブリッチ『インド・スリランカ上座部仏教史』春秋社、2005年
[文・一色大悟 平成22年7月]
*この記事は、平城遷都1300年奉祝イベント「ほとけの道のり」のパンフレットに転載されました。