第8回 インド仏教史1
1. 初期仏教
インドは仏教が興った地です。紀元前5世紀(一説には6世紀)、北インドのカピラヴァスツで、仏教の開祖であるシャカ族のガウタマ・シッダールタは生まれました。 彼のことをシャカ族の尊者、略して釈尊(しゃくそん)といいます。当時のインドには、アーリヤ人の先祖伝来の聖典であるヴェーダに基づき祭祀を行なう婆羅門(ばらもん)のほかに、 沙門(しゃもん)と呼ばれる出家修行者たちが様々な思想を説き、百家争鳴の状態にありました。 釈尊はクシャトリア(戦士階級)の王族に生まれましたが、29歳で出家して沙門となって修行し、35歳の時ブッダガヤーにおいて悟りを得、 ムリガダーヴァでかつての修行仲間五人に教えを説きました。この五人に対して説法をした時がインド仏教の始まりであるといえます。 釈尊は残りの生涯で教えを広め、80歳の折クシナガラで入滅されました。有名な弟子には、シャーリプトラ(舎利子)、マウドガリヤーヤナ(目連)、マハーカーシュヤパ(摩訶迦葉)、 アーナンダ(阿難)らを挙げることができます。この釈尊とその直弟子たちの仏教を特に根本仏教ということがあります。
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釈尊の入滅の直後に摩訶迦葉を中心として第一回目の結集(けつじゅう)が行なわれました。結集とはインドの言葉でサンギーティ、といい「共に唱える」という意味で、 仏弟子たちが聞き覚えた教えを共に唱えて確認することを指します。仏教の中心が釈尊本人から弟子たちに移行した結果、教えの保存と整理のための作業として結集が行なわれました。 結集はインドで都合四回行なわれたとされます。伝承では、仏陀入滅ののち約百年間は教団の統一が保たれた、といわれますが、 仏教創始からこの初期教団の統一が保たれていた時期の仏教を原始仏教あるいは初期仏教といいます。そして、その初期仏教の聖典は三蔵(さんぞう)にまとめられました。 三蔵とは経蔵、律蔵、論蔵を指します。このうち経蔵は釈尊の言行をまとめたもので「阿含経典(あごんきょうてん)」といわれるものです。 律蔵は仏教教団構成員の生活規定と教団の運営規定、つまりは戒律について記したものです。そして論蔵とは教義をある程度体系的にまとめた文献群です。
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初期仏教で重視されている思想としては、縁起説・無我説・四諦(したい)などを挙げることができます。縁起説とは、あらゆるものが「縁によって起こる」、 つまり他に依存し条件付けられて存在する、常住ならざるものであるとする説で、無我説とは一切のものが他に依存して存在する以上、そこに実在する個体の本質は存在しないとする説です。 四諦とは、四つの真実のことで、苦諦(くたい)(世界のすべては苦しみであるという真実)・集諦(じったい)(苦しみの原因は妄念であるという真実) ・滅諦(めったい)(苦しみの原因を滅した状態が苦の滅たる涅槃であるという真実)・道諦(どうたい)(苦しみの滅に至る道についての真実)のことです。 この時期にインド内における伝道活動が行なわれ、ガンジス川中流域からインド全土に仏教は広まりました。 仏滅後百年あるいは二百年の頃に現れたマウルヤ朝のアショーカ王は他宗教とともに仏教を保護した王として有名です。
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2. 部派仏教
仏滅後約百年を経た頃に、戒律上、教義上の見解の相違から最初の仏教教団の分裂が起こりました。 この分裂を根本分裂といい、結果として保守派の上座部と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)という二つの派閥が成立したとされます。 そしてその後二百年ほどの間に両方の派閥で分裂が進み、インドでは十八部といわれる十八の部派が成立したとされます。この分裂を枝末分裂といいます。 このような様々に分裂した派閥の仏教のことを部派仏教と呼んでいます。それぞれの部派はそれぞれの部派ごとに異なったヴァージョンの三蔵を保持したため、 仏教の聖典は増稿されて多様化しました。この枝末分裂の結果生じた部派の内では、説一切有部(せついっさいうぶ)と正量部(しょうりょうぶ)が大きな影響力を持ちました。 説一切有部はカシュミールで勢力を保ち、仏教教義の発展と体系化に大きな影響を与えました。 彼らは経典解釈学を中心とした思想を大いに研究し、紀元後2世紀から5世紀の間に『毘婆沙論(びばしゃろん)』や 世親(せしん)作の『阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)』といった文献を生み出しました。 説一切有部の教義思想は三世実有説(さんぜじつうせつ)といわれる存在論に基づき、一切の事物を構成要素に還元し、 それら要素間の関係で教義上の問題と世界の事象を説明することに特徴があります。また、正量部は後にインド最大派閥になったとされます。
[文・一色大悟 平成22年9月]