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第9回 インド仏教史2

3. 大乗仏教

 紀元前1世紀頃、このような部派教団によって保持され伝承された仏教とは別に大乗仏教と呼ばれる仏教が興りました。 ただし、大乗仏教は仏教の変革運動ではあっても、初期においては独自の戒律を持たず、教団として部派から独立したものではなかったと考えられています。 さて、仏陀となる道を歩む修行者をボーディサットヴァ(菩薩)といいます。菩薩という言葉は古くからありますが、大乗仏教ではこの菩薩たることを特に重視します。 そして、従来の仏教が出家者を中心として維持され、出家して修行することによる輪廻の苦しみからの離脱を特に重視していたのに対し、 大乗仏教では出家・在家に関わらず菩薩の道を歩み仏と同じ悟りに到達することができる、と考えます。 大乗とは「大きな乗り物」を意味しますが、それはこの菩薩の道を皆が進むことに由来し、またそれゆえに大乗のことを菩薩乗ともいいます。 そしてまた、初期仏教、部派仏教の聖典が、あくまで釈尊の言行の整理と解釈によって発達したのに対し、大乗仏教では菩薩たる行者が瞑想経験中で仏陀に教えを受け、 その教えをあくまで真正な仏陀の言説として認めて経典を書き止めることで多数の文献が成立しました。 大乗仏教はこの経典製作運動と表裏をなし、大乗経典は千年以上にわたって作成されました。大乗経典の嚆矢(こうし)は『般若経(はんにゃぎょう)』で、 よく知られている『般若心経』などを含みます。『般若経』では、六波羅蜜(ろくはらみつ)を通じた菩薩の修行が説かれ、特にそのうちの般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の 修行によってすべてのものが空であること(ものに確定した本質のないこと)を知る智慧を得る、と説かれます。 『般若経』に続いて、『維摩経(ゆいまぎょう)』『法華経(ほけきょう)』『華厳経(けごんきょう)』『無量寿経(むりょうじゅきょう)』などが作成されました。

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 このような大乗経典の製作運動とともにナーガールジュナ(龍樹)らにより大乗仏教の思想の体系化が行なわれました。 龍樹は紀元後2、3世紀の人で、南インド出身であったとされ、『中論頌(ちゅうろんじゅ)』などを著しました。 彼は般若経の説く空無自性の説こそが仏陀の教える縁起であることを強調し、説一切有部の唱えた要素実在論的な思想を批判しました。 『中論頌』の「中」とは存在する・存在しないなどの極端を離れた中道(ちゅうどう)のことであり、縁起のことを指します。 彼の思想を中心として、後に述べる瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)の思想を批判する形で中観派(ちゅうがんは)と呼ばれる学派がおこりました。 中観派は自立論証派と帰謬論証派とに分けられるといわれます。現代チベット仏教で代表的派閥であるゲルク派は、このうちの帰謬論証派の立場に立つと自ら述べています。

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 また、5世紀頃にあらわれたアサンガ(無着(むじゃく))とヴァスバンドゥ(世親(せしん))の兄弟によって瑜伽行派の思想が体系付けられました。 兄である無着は『摂大乗論(せつだいじょうろん)』などを、弟である世親は『唯識二十論』『唯識三十頌』などを著しました。 瑜伽行派は、もともと説一切有部に関係の深い、瞑想修行を行なう人々の思想に起源の一つをおいています。 彼らは大乗の空の思想を受け入れ、瞑想中に現れる様々な像が心象に過ぎないことを敷衍して、通常認識される一切のものも心の作り出したイメージに過ぎないという 唯識の立場に立ちます。そして彼らは表層から深層へと心の分析を進め、潜在意識ともいうべきアーラヤ識を発見し、このアーラヤ識の転換により大乗の涅槃があると主張しました。 『西遊記』のモデルとなった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は、この瑜伽行派の典籍を求めて7世紀にインドへ単身向かいました。 この瑜伽行派と縁の深い思想として如来蔵(にょらいぞう)思想というものがあります。 これは、人の心は本来的に清浄であり、したがってすべての者に如来、つまり仏陀となる可能性があるという思想です。 如来蔵思想は『如来蔵経』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『涅槃経(ねはんぎょう)』などの経典で説かれ、『宝性論(ほうしょうろん)』によって体系化されました。 この思想に基づいて『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』は書かれ、日本を含む東アジアに大きな影響を与えました。

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4. 仏教論理学派と密教(インド後期仏教)

 さて、教団が整備され、僧侶たちが知識人として諸学の研鑚(けんさん)をつむようになると、その研究の中心としてナーランダー寺、ヴィクラマシーラ寺などの 大寺が建設されました。これらの寺院では上に述べたような教義学のみならず声明(しょうみょう)(文法学)、因明(いんみょう)(論理学)、医方明(いほうみょう)(医学)、 工巧明(くぎょうみょう)(工学、造形学)も学ばれました。このうち因明は、インドで仏教内外の論争が盛んになったことを受けて発達し、仏教論理学派ともいわれる人々が現れました。 論理に関する言及はインド仏教内に古くからありますが、6世紀に活動したディグナーガによって論理学の体系は刷新され、7世紀のダルマキールティによって大成されました。 彼らは直接知覚と推論の二つを正しい認識手段と認め、それら正しい認識に基づき人を涅槃に導く仏陀が権威であることを証明しようとしました。

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 その一方で、ヒンドゥー教の儀礼や呪句などを取り入れ、世界は仏そのものであり、儀礼に基づく行法によって行者がその仏そのものと一体化することで即身成仏(そくしんじょうぶつ) が可能である、とする密教が出現しました。もともとは大乗経典中にも真言、陀羅尼(だらに)が取り入れられていましたが、 7世紀には『大日経』『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』等が成立したことでまとめられました。 その他、有名な密教文献としては、『理趣経(りしゅきょう)』『秘密集会(ひみつしゅうえ)タントラ』『へーヴァジュラタントラ』『カーラチャクラタントラ』などがあります。


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 インド後期の仏教では論理学と密教が中心となり、様々に発展し深化しつつヴィクラマシーラ寺などを中心として存続しました。 しかしながら、既に在家信者の間にはヒンドゥー教の影響が強まっていたため、イスラム教徒により仏教寺院が破壊され僧侶が離散するようになると、 残された信者はヒンドゥー教などに吸収され、仏教はインドで勢力を失ってしまいました。1203年にヴィクラマシーラ寺が破壊されると衰退は決定的になりました。 一般に、この年をもってインド仏教滅亡の年とします。現代インドに存在する仏教は、近年カースト制度からの解放運動に際してアンベードカルらによって復興されたものです。 この復興までの間、東部、北部のごく一部の地域をのぞき、インドから仏教は姿を消すこととなりました。


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〈参考文献〉

平川彰『インド仏教史』上下、春秋社、1974-1979年
早島鏡正・高崎直道・原実・前田専学『インド思想史』東京大学出版会、1982年
早島鏡正監修『仏教・インド思想事典』春秋社、1987年
塚本啓祥・松長有慶・磯田熙文編著『梵語仏典の研究』密教経典篇、平楽寺書店、1989年
塚本啓祥・松長有慶・磯田熙文編著『梵語仏典の研究』論書篇、平楽寺書店、1990年
末木文美士監修『雑学三分間ビジュアル図解シリーズ 仏教』PHP研究所、2005年
菅沼晃博士古稀記念論文集刊行会編『インド哲学仏教学への誘い』大東出版社、2005年
奈良康明・下田正弘編『新アジア仏教史1 インドⅠ 仏教出現の背景』、佼成出版社、2010年

[文・一色大悟 平成22年9月]

*この記事は、平城遷都1300年奉祝イベント「ほとけの道のり」のパンフレットに転載されました。