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第10回 スリランカ仏教史1

 南方上座部の伝承によれば、仏滅後100年頃、教団規則の解釈をめぐって意見対立が生じ、仏教教団は保守的な上座部(じょうざぶ)と進歩的な大衆部(だいしゅぶ)に分裂したとされます。 そして、そのうちの上座部が更に分裂し、その一つである分別説部(ふんべつせつぶ)の仏教がスリランカに伝わったといわれています。 このスリランカの仏教は、①インドの影響を色濃く受けた時代、②西欧列強の支配・干渉を受けた時代、③イギリスからの独立後の3つに大きく時代区分でき、 以下、この順序でスリランカ仏教史の概略を説明していきます。

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スリランカ仏教とインドの影響

 インドよりスリランカに仏教が公伝されたのは、デーヴァーナンピヤティッサ王(前250-210年)の頃です。 アショーカ王の王子マヒンダ長老が来島し、この地に仏教教団を確立したことに始まりました。 王はマヒンダ長老のためにアヌラーダプラにマハーヴィハーラ(大寺)を建立したとされ、それ以来、長い間、スリランカ仏教の中心はこの地となりました。
 このマヒンダ長老に少し遅れて、アショーカ王の王女サンガミッターも来島しました。その際、伴ってきたものを見ると、菩提樹(ぼだいじゅ)、比丘尼(びくに)、 王族、家臣、バラモン、庶民、牧牛者、貴金属工、織工、陶工、軍兵などが挙げられます。 恐らく、デーヴァーナンピヤティッサ王の意図は当時の先進地域のインドから文物、制度、技術などを導入することにあり、 仏教の伝来もその一環として行われたものと考えられます。
 少し時代は下りますが、ヴァッタガーマニーアバヤ王(前103-77年)の時代に、その後のスリランカ仏教の展開上大きな影響を及ぼす事件が起こりました。 それはスリランカ仏教教団の分裂であり、それによってマハーヴィハーラ派と王が庇護したアバヤギリヴィハーラ派の分立状態となりました。 後のマハーセーナ王(276-303年)の時代に更に分裂があり、マハーヴィハーラ派、アバヤギリヴィハーラ派、そして、王が懇意にするジェータヴァナヴィハーラ派が分立し、 互いに競合する状況となり、それは12世紀に至るまで続くことになります。

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 ここまで見てきたことからも分りますように、スリランカ仏教は王権と密接な関係をもち、国家の影響下で発展・展開していきました。 このスリランカ仏教が繁栄していた様子が『法顕伝(ほっけんでん)』にも残されています。 マハーナーマ王(410-432年)の時代に二年間アバヤギリヴィハーラに滞在した法顕は、アバヤギリヴィハーラに五千人の僧侶が、マハーヴィハーラに三千人の僧侶が居住していたことを記しています。 経済活動を行わない多数の僧侶の生活を支えるために、国家からの莫大な富が仏教教団に費やされていたことが想像できます。

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 ところが、それから数世紀が過ぎ、9世紀に入ると、スリランカ仏教は長い苦難の時代を迎えることになりました。 例えば、マヒンダ5世(982-1029年)の時代には、インド対岸のシヴァ教徒のチョーラ人が大侵入し、略奪などを行ったとされ、中心地アヌラーダプラは廃墟と化し、 スリランカ仏教は壊滅的な打撃を受けました。 このような事態は、ヒンドゥー教の影響をスリランカにその後長く残すことになり、時にヒンドゥー教を支持する王も現れたようです。
 この二世紀以上にわたる暗黒時代に夜明けをもたらしたのがヴィジャヤバーフ1世(1055-1110年)であり、外敵を駆逐し、国内を平定し、 ビルマから仏教教団を逆輸入することで仏教の再興を行いました。 更に、12世紀後半には、スリランカ史上最大の英主とされるパラッカマバーフ1世(1153-1186年)が現れ、外敵を駆逐すると共に仏教教団の統一を行いました。 王はマハーヴィハーラ派、アバヤギリヴィハーラ派、ジェータヴァナヴィハーラ派の三派を統合し、アショーカ王が行った様に破戒僧を還俗させて、官職を授けるなどしました。 これにより、スリランカの仏教教団は、暫くの間、安定を取り戻したとされます。

[次号に続く]