第11回 スリランカ仏教史2
西欧列強の支配・干渉
前回に見たように、スリランカ仏教は、インドとの関係の中で発展と衰退とを繰り広げていきましたが、16世紀に入ると事態は一変します。
当時は大航海時代ですが、この地域にもポルトガルが進出してきたのです。
ポルトガルの宗教政策は厳しく、仏教寺院を破壊し、僧侶を殺傷し、住民のカトリックへの改宗を強制したともいわれます。
また、17世紀半ばには、オランダがポルトガルに代わって進出し、各地に学校を建て、そこを通してキリスト教の布教を行いました。
このように西欧列強の進出を受けたスリランカでは、仏教教団は徐々に衰退していき、存続の危機に立たされることになります。
更に、これに追い討ちを掛けたのが18世紀末からのイギリスの進出です。
イギリスは、1815年には仏教を庇護するキャンディ王国を占領し、スリランカ全土をその支配下に置きました。
イギリスは基本的にスリランカの宗教に不干渉でしたが、国家の庇護を失った仏教教団は一層の衰退へと向かっていきました。
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イギリスからの独立
この苦境下で現れたのがアナガーリカ・ダルマパーラであり、彼は1891年にコロンボにおいてマハー・ボーディ・ソサイエティを設立し、仏教復興運動を開始しました。 病院や学校の建設、シンハラ語新聞の発刊など社会運動においても活躍した彼は、シンハラ・ナショナリズムの高揚に大きな影響を与え、 イギリスからの独立を願う人々の精神的な支柱ともなりました。 そして、彼の死後十数年経た後の1948年、ついにスリランカはイギリスより独立することになります。
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独立後の大きな動きとしては、1972年にセイロンがスリランカ共和国と名前を変え、新憲法の制定により、仏教に最優先の地位が与えられたことでしょう。 これは、直接的には、人口の大多数を仏教徒のシンハラ人が占めていることを反映してのものですが、その背景には、国家と仏教の密接な関係が歴史的に存在してきたことも見逃せません。 近代以前のスリランカ仏教史を見渡すと、この地の仏教は国家の庇護や干渉を受けながら、それとの関係の中で発展と衰退を繰り広げていったのです。
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〈参考文献〉
前田恵学「スリランカ上座仏教の歩み」、前田恵学編『現代スリランカの上座仏教』、山喜房仏書林、1986年
前田恵学「西洋支配下のスリランカと仏教の復興」、前田恵学編『現代スリランカの上座仏教』、山喜房仏書林、1986年
[文・青野道彦 東京大学大学院 平成22年9月]
*この記事は、平城遷都1300年奉祝イベント「ほとけの道のり」のパンフレットに転載されました。