第14回 チベット仏教史
チベットへの仏教伝播の過程は仏教東漸史において述べられていますので、ここではチベットにおける仏教諸派の歴史について説明していきます。
チベットへの仏教伝播は前伝期と後伝期に分けられますが、そのうち前伝期には宗派の別は明確ではなく、後伝期に入って仏教の理解が深まり受容が本格化することで様々な宗派が並び立つようになりました。
まず、後伝期にインドからチベットに入り仏教復興の中心人物の一人となったアティシャの指導を受け、その弟子であるドムトン(1004-1064年)が中心となって、
チベット仏教最初の宗派であるカダム派が形成されました。
アティシャは、小乗の戒律を保ち、大乗空観の理を学び、タントラ仏教の実習によって悟りを得ることを主張し、一切衆生への悲心から菩提を求める心を起し、
そのための智慧を得ることと方便としての利他行は一致すると考えました。
教団倫理との融合が問題となるような性的儀礼を含むタントラ仏教にも積極的な立場を取っていたとされ、
そのため仏教の乱れを経験してきたチベット人僧侶との間に軋轢(あつれき)を生じていたといわれます。
ともかくも、カダム派はこのアティシャの教えに従うことを標榜する派閥で、その内部ではタントラ仏教の実践をどの程度認めるか、という問題からさらに分派が起こりましたが、
そのうちタントラ仏教の実践に積極的であった派閥も後に実践を避けるようになりました。現在ではゲルク派に統合されています。
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このようにタントラ仏教の実践に比較的消極的だったカダム派に対し、カギュ派は受容に積極的でした。 カギュ派の祖とされるマルパ(1012-1097年)は在俗の翻訳家で、インド・ネパールを度々訪れて、新しい性的儀礼をともなう瑜伽(ゆが)タントラをチベットにもたらしたとされます。 彼の弟子には詩人であり密教行者であったミラレーパ(1040-1123年)がいます。 カギュ派として現在知られている諸派閥は、ガムポパ(1079-1153年)の系統に属するものです。 彼はミラレーパの弟子に当たりますが、上に述べたマルパの弟子としては傍系に当たります。 このカギュ派の諸派には、氏族教団となったいくつかの派閥のほか、活仏(かつぶつ) (衆生教化のために輪廻転生(りんねてんしょう)を繰り返す偉大な仏教者の生まれかわりと見なされた人)を頂き現在も残るカルマ派があります。
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サキャ派は、1073年に吐(と)蕃(ばん)時代以来の名族クン氏がサキャという地に在家信者の密教センターを設立したことに始まります。
そしてその地名を取って、その寺院名と派閥名が名づけられました。教理としては、唯心を重視する瑜伽行中観的な立場を取りました。
妻帯も許されており、この派を代表する多くの高僧は血縁関係で結ばれ、氏族教団を形成していました。
1203年にインドでイスラム教徒の攻撃によりヴィクラマシーラ寺が滅びた際、
当寺の最後の僧院長であったシャーキャシュリーバドラ(1127-1225)とその弟子を約十年にわたって受け入れたのはこの派閥です。
シャーキャシュリーバドラは論理学やタントラ仏教、戒律を新たにチベットにもたらしました。
彼の弟子となったサキャ・パンディタ(1182-1251年)は、顕密(けんみつ)に通じ中観自立論証派の立場をとり、チベット開闢(かいびゃく)以来の大学僧といわれました。
サキャ・パンディタの後にこの派に出たパクパ(1235-1280年)は元朝のフビライハーンの帝師となり、彼の元朝内における影響力によってサキャ派は1270年から約七十五年間チベット全土で栄えました。
元朝滅亡以後のサキャ派には、もともとこの派の中核をなしていたクン氏の家系に属さない学者が多数現れ、新サキャ派を形成しました。
彼らは中観自立論証派の立場を奉じ、後に述べるゲルク派と対立しました。
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パクパの弟子の一人が14世紀はじめにチョモナンの地に僧院を建立しました。この寺院によった一派をチョナン派といいます。
彼らは『カーラチャクラタントラ』といわれるタントラを護持していました。
ターラナータなどの学僧を輩出しましたが、ゲルク派のダライラマ政権が成立すると異端として弾圧されました。
ニンマ派は、彼らの伝承によると前伝期の行者パドマサンバヴァの伝えた密教の信奉者たちの系譜に属する派閥であり、これまで述べてきた後伝期の仏教諸派と異なります。
ただし、実際に教団が形成されたのは11世紀頃であろうと考えられています。
その思想は、中国系南宗禅の本覚(ほんがく)思想の影響が指摘されており、「大究竟(だいくきょう)」と呼ばれています。
この派は土俗の信仰と融合して民間に深く根を下ろし、独自のタントラ集成を伝承しています。
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最後に述べるゲルク派は14世紀末にツォンカパ(1357-1419年)によって創始されました。
彼はアティシャに私淑して戒律を重視し、当時のチベット仏教教団の乱れを正す宗教改革を行ないました。
また、密教以外の仏教教理の研究を重視し、中観帰謬論証派を教学の基礎として、密教も含むすべての仏教を統合しようとしました。
教理研究の重視から、この派ではガンデン寺をはじめとして大規模な学問寺がいくつも建立され、また多数の碩学を輩出しました。
この派はカギュ派の一派カルマ派と抗争を続けた結果、デープン寺の僧院長であり、活仏である第五世ダライラマがモンゴル族オイラート部の力を借りて1642年に政権を掌握しました。
この結果、ゲルク派の宗教的権威もツォンカパの系統に属すゲルク派からダライラマへと移りました。
このダライラマ政権は現在に至るも継続しております。
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〈参考文献〉
長尾雅人、他『チベット仏教』岩波講座東洋思想第十一巻、岩波書店、1989年
菅沼晃博士古稀記念論文集刊行会編『インド哲学仏教学への誘い』大東出版社、2005年
沖本克己編『須弥山の仏教世界』新アジア仏教史09チベット、佼成出版社、2010年
[文・一色大悟 東京大学大学院 平成22年9月]
*この記事は、平城遷都1300年奉祝イベント「ほとけの道のり」のパンフレットに転載されました。