第17回 日本仏教史―仏教伝来から鎌倉仏教まで―
1. 仏教伝来
日本に仏教が正式に伝えられたのは、6世紀の欽明(きんめい)天皇の時代です。6世紀というと、中国では南北朝に分かれ、朝鮮では高句麗・百済・新羅の三国に分かれていた時代です。 朝鮮では、すでに仏教は伝わっていました。そのうちの百済の聖明王(せいめいおう)から、仏像や経典が贈られました。
日本では、仏教伝来以前から古来の神々が信仰されていました。仏教が伝えられると、仏教を積極的に受け入れようとする側と受け入れに反対する側とに分かれます。 仏教を受け入れようとする側の代表は、中国・朝鮮から渡ってきた渡来人系の蘇我(そが)氏で、受け入れに反対する側の代表は、物部(もののべ)氏でした。 仏教の受容を巡る問題は、豪族間の権力争いと共に激化しますが、蘇我氏の勝利により一段落します。
崇仏派の蘇我氏が勝利したことで、仏教は急速に普及していきます。推古(すいこ)天皇は、「三宝興隆の詔」を発布し、聖徳太子は「十七条の憲法」を制定し、その中で仏教を儒教と並んで政治の基本精神に据えました。 また、豪族の間では、各自の寺院が建立されます。これらの寺院は、それぞれの氏族の祖先を祀る目的で建てられ、「氏寺(うじでら)」と呼ばれます。 このように従来の祖先崇拝の延長として仏教が信仰される一方で、中国や朝鮮の最新の仏教教学の影響も見られます。
聖徳太子は、『法華経』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『維摩経(ゆいまぎょう)』の註釈書を書いたとされています。 その中で、聖徳太子は中国の註釈書を踏まえながらも、独自の意見を出すなど、仏教に関する高い知識を示しています。 現在では本当に聖徳太子が書いたのか疑問が持たれており、朝鮮から渡来した僧侶の影響が指摘されていますが、当時の仏教学の水準の高さを示す重要な書物の一つです。
2. 奈良時代
仏教伝来から聖徳太子の時代までは、朝廷が飛鳥(あすか)に置かれていましたので、飛鳥時代と呼ばれています。この時代は、いまだ蘇我氏などの豪族を中心とする仏教でした。 その後、大化の改新や壬申の乱を経て、天皇を中心とする律令制国家となります。奈良時代には、仏教もまた天皇を中心として国家政策の一環として進められていきました。いわゆる「国家仏教」の時代です。 この時代の仏教は、国家を鎮護する目的で国家を中心に寺院が建てられ、経典の写経と読誦が行われました。一方で、僧侶らも官僚の一部として管理され、その活動は制限されました。
聖武(しょうむ)天皇は、国の安寧と平和を願って、全国に国分寺を建立し、さらに東大寺に有名な大仏を建立しました。また、唐とも遣唐使を通じて交流があり、最新の仏教学が日本に入ってきました。 中国の諸宗派が伝来することにより、「南都六宗(なんとろくしゅう)」が成立します。南都六宗とは、三論(さんろん)宗・成実(じょうじつ)宗・法相(ほっそう)宗・倶舎(くしゃ)宗・律(りっ)宗・華厳(けごん)宗 の六つを指します。後世の宗派と違って、いずれも学問としての宗派であり、僧侶らは自由に行き来し、各宗派の学問を学んでいました。このうち、法相宗は興福寺が、華厳宗は東大寺が、 律宗は唐招提寺(とうしょうだいじ)が中心となって活動し、現在に至っています。律宗の唐招提寺は、鑑真(がんじん)が建立したことで知られています。 僧侶になるには、戒律を受けてそれを遵守しなければいけません。しかし、当時の日本には、正式な受戒の儀式が伝わっていませんでした。そのため、唐から授戒のできる人物を呼ぶことになります。 それが鑑真でした。鑑真は、日本の僧侶らの求めに応じて、三回挑戦して、四回目にようやく日本に来ることができました。 鑑真の来日により、日本でも受戒が可能となり、東大寺とその他の二カ所に戒壇(かいだん)が設置されます。
奈良時代では、僧侶は僧尼令(そうにりょう)によって管理され、出家するにも国の許可が必要でした。僧侶の活動は制限があり、一般の人々に自由に布教することは許されていませんでした。 それに対して、国の許可を受けずに私的に出家する「私度僧(しどそう)」と呼ばれる僧侶らが現れます。その代表的な人物が、行基(ぎょうき)です。行基は、人々のために仏教の教えを説き、 各地に橋を設けるなど布教と社会奉仕活動に従事しました。初めは行基の活動を禁止しようとしていた朝廷も、大仏の建立の際に、行基の助けを借りることになります。 行基は、日本で最初に「大僧正(だいそうじょう)」という一番高い僧侶の位についた人物になりました。中世には密教が中心となりますが、それをもたらした空海もまた最初は「私度僧」の一人でした。
3. 平安時代
平安時代には、仏教は密教が中心となりました。密教はインドのヒンドゥー教の影響を強く受けて成立した仏教で、現実肯定を背景に、 今生きている段階で成仏できるという即身成仏(そくしんんじょうぶつ)の思想を大きく主張します。日本では、この現実肯定の思想は、一般の人にも仏となれる性質があるという仏性論と一緒になってさらに強調され、 院政期には、すでに衆生は仏であるという本覚思想(ほんがくしそう)へと発展します。
日本の密教は大きく分けて、天台宗系の台密(たいみつ)と真言宗系の東密(とうみつ)の2つに分かれます。天台宗と真言宗は、平安時代になって開かれたものです。
天台宗を開いたのは最澄(さいちょう)です。最澄は、天台を学ぶために唐に渡り、その地で天台の他に密教、禅、戒律を学びました。その後、日本に帰り比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を建て、天台宗を開きました。 最澄はまた、従来の厳しい制約の多い小乗戒に対して、より制約の少ない世俗向けの大乗戒を重視し、それを授ける戒壇を比叡山に設けるよう朝廷に働きかけました。 この大乗戒による戒壇の設立が認められたのは、最澄の死後まもなくのことです。
真言宗を開いた空海(くうかい)もまた、最澄と同じく唐に渡り密教を学び、戻ってきてから高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を、京都に東寺(とうじ)を建てました。 空海の学んだ密教は、日本の仏教界に大きなインパクトを与え、貴族や僧侶らが密教を学びに来ます。先に天台宗を開いた最澄もまた、その中の一人でした。 こうして、空海の伝えた密教が、それ以後の平安時代の仏教の中心となっていきました。
天台宗では、最澄の後に円仁(えんにん)、円珍(えんちん)が唐に密教を学びに行きます。円仁はまた念仏も伝えました。 その他の思想を包括する天台の思想を受けて、比叡山では天台の他に、密教、浄土教、禅なども学べる総合大学として活躍します。 鎌倉時代に浄土宗や日蓮宗が誕生しますが、その開祖らも初めは比叡山で学び、後に独立した人たちです。
密教では加持祈祷(かじきとう)が行われます。その呪術的な力を利用して、現世利益を成就するのが祈祷ですが、貴族を中心に受け入れられました。 奈良時代の仏教が朝廷による鎮護国家と学問を中心とする仏教であったのに対し、平安時代の仏教は、現世利益を主とした貴族の仏教でした。その後、一般民衆を対象に救いを説く鎌倉仏教の時代へと移行します。
平安時代中頃から鎌倉時代初めにかけて、災害が多発しました。また、貴族社会から武家社会へと移行し度重なる戦乱も起きるようになり、社会不安が大きくなりました。 仏教には、お釈迦様の死後にどんどん仏教が廃れていく末法思想(まっぽうしそう)というものがあります。このような社会不安が高まるにつれて、即身成仏のような現世での成仏や救いを諦め、 来世に極楽に往生して成仏する浄土思想が普及していきました。 その代表的な人物に、『往生要集(おうじょうようしゅう)』を書いた源信(げんしん)がいます。 今の浄土宗や浄土真宗では、念仏は「南無阿弥陀仏」と唱えるものだけを指しますが、源信の時代には、阿弥陀仏を心に思い描く念仏も説かれます。