第18回 日本仏教史―鎌倉仏教から昭和の仏教まで―
4.鎌倉時代
鎌倉時代に入ると、中心が京都から鎌倉に移り、地方が発展していきます。また、武家階級が誕生し新しい勢力が交流しました。このような社会の変動に応じて、仏教界でも新しい動きが生じます。 そこには二つの方向性が見られます。一つは、原点に回帰し戒律の復興と禅の実践を求める方向です。二つは、旧来の仏教と袂を分かち新しい仏教を模索する方法です。 一つめの方向は、宋の影響を受け南都での戒律復興運動や臨済宗と曹洞宗の禅宗の興隆につながりました。二つめの方向は、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗や日蓮の日蓮宗の開宗へとつながりました。
浄土教については、最初に法然(ほうねん)が『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』を著し、万民の行える唱える念仏のみを主張し、京都で布教活動を行います。 その弟子の親鸞(しんらん)が法然の教えを受けて浄土真宗を起こし、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著しました。法然・親鸞の浄土宗は鎌倉幕府によって弾圧されましたが、信者の数は増え続けます。 また後になって一遍(いっぺん)が時宗(じしゅう)を開いて、踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」を広めました。
禅宗については、栄西(えいさい)に先立って、能忍(のうにん)が達磨宗(だるましゅう)を開いて布教活動をしていました。 栄西は密教の影響を強く受けながらも宋に渡り臨済禅(りんざいぜん)を伝えます。当初は法然と同様に政府から弾圧を受けましたが、その後幕府に接近し、その加護を受けるようになります。 栄西の後に宋に渡り曹洞禅(そうとうぜん)を伝えたのが、道元(どうげん)です。彼は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の著者として知られていますが、そこには道元の深い哲学的思想が表れています。 道元の曹洞宗が修行そのものを悟りと見なしひたすら坐禅する「只管打坐(しかんたざ)」を説くのに対し、栄西の臨済宗では公案(こうあん)という禅の問題集を用いた看話禅(かんなぜん)であるという特色があります。
日蓮宗は鎌倉新仏教の中では遅く鎌倉時代後期に成立しました。鎌倉時代後期には、飢饉や疫病の流行が相次いで起こるようになります。 また元寇(げんこう)といった対外的な危機も生じ、社会不安が再び高まりました。そのような時代背景を受けて、日蓮(にちれん)は末法の時代にふさわしい教えを『法華経』に求め、『法華経』の題目を唱えることを説きます。
従来の仏教側の活動としては、最初に貞慶(じょうけい)があげられます。貞慶は興福寺の僧侶で、法然の専修(せんじゅ)念仏を批判しながらも、禅や念仏の影響を受けて観心などの実践を説いて、南都の仏教に大きな影響を与えました。 また、天台では慈円(じえん)が比叡山の復興に尽力します。慈円は末法思想の観点から武家社会の興隆をまとめた歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』を書いたことで知られています。 その後、叡尊(えいそん)とその弟子の忍性(にんしょう)による戒律復興運動が起こりました。 叡尊は、受戒の儀式を伴わない自誓受戒(じせいじゅかい)をし、忍性と共に各地で戒律復興と社会奉仕活動に従事しました。
5.室町時代
室町時代の仏教は、室町幕府が支配力を持っていた時期と、応仁の乱以後の戦国時代とに大きく分かれます。室町幕府が支配していた前期においては、社会も安定し各宗派共に勢力を伸ばしていきました。 この時代の中心となったのが、幕府と結びついていた臨済宗でした。
中国では、宋の後に南宋から元へと王朝が移りますが、禅宗もその間発展を続けていました。 日本でも栄西の後、円爾(えんに)、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)、無学祖元(むがくそげん)、一山一寧(いっさんいちねい)らによって続々と禅が伝えられました。 禅宗の興隆と共に禅寺が多く建立されると、中国の制度をまねて五山の制度が作られ体系化と整備が進められます。 その中で活躍したのが、夢窓疎石(むそうそせき)でした。夢窓疎石は室町幕府の創始者である足利尊氏の加護を得て勢力を振るいます。 また、明の新しい文化を積極的に取り入れ、庭園や書道、文学、水墨画など禅文化の興隆に大きく寄与しました。 その後、禅文化が盛んになるにつれて禅本来の心が形骸化していると五山禅に対し批判が起こり、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)といった人物が現れました。
曹洞宗の方では、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が出て、加持祈祷や儀礼的要素を取り入れ大衆化を図りました。 彼の活躍により、それまでは小規模な勢力だった曹洞宗は地方に大きな勢力を持つようになります。
浄土系の宗派でもそれぞれ勢力を伸ばしていましたが、戦国時代に入る頃に浄土真宗に蓮如(れんにょ)が登場します。蓮如は廃れていた本願寺を再興し、 御文(おふみ)という仮名書きの法語を作成して全国の信者に配りました。蓮如の活動によって、北陸一帯に浄土真宗は広まり、後に一向一揆へと展開します。
日蓮宗では、日蓮の死後に弟子たちの間で分裂が生じ、それぞれの流派で布教活動を行いました。日像(にちぞう)は京都で布教し、新興の商工業者を中心とした町衆の信仰を獲得しました。 その他に、かつて日蓮が鎌倉幕府に自らの宗派を信じるように室町幕府に改宗を迫った者もいます。 日親(にっしん)は、時の将軍である足利義教に改宗を迫り、焼けた鉄鍋を頭にかぶせられるという拷問を受けました。
戦国時代は、一向一揆や法華一揆といった宗教を軸に支配者に対抗する動きが全国で起きました。 天下を目指す大名にとって、これらの宗派と信者の動きは大問題であり、融和と弾圧の政策が取られました。それは、後の徳川幕府による政策にも受け継がれていきます。
5.江戸時代
現在では、仏教徒の家庭は大抵どこかの寺院と関係して、お葬式や法事は定まったお寺に頼みます。このような関係は、江戸時代に生まれました。
江戸時代の仏教は、徳川幕府の統制下に置かれ、幕府の民衆支配の一機構として機能することになります。 それが、本末制度(ほんまつせいど)と寺檀制度(じだんせいど)です。本末制度とは、各寺院を本寺と末寺という上下関係の中に組み込んで、本寺に人事権などの大きな権限を与えて、 末寺を支配させるという寺院の間の制度です。寺檀制度とは、民衆と寺院を結びつける制度で、寺院と檀家(だんか)を固定させ、キリシタンの禁制を徹底させるものでした。 後には宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)の制度も作られ、戸籍の代わりとして利用されました。幕府は、宗教による精神面での民衆支配の助けを得るためにこれらの宗教政策を行いましたが、 一方で宗教側も世俗権力の保証が得られるため積極的にこれらの政策に荷担します。この幕府との密接な関係は、寺院の経済的安定を保証する一方で、 宗派間の論争や一宗派内での異説の禁止などその活動に大きな制約を加えられることになりました。しかし、そのような制約の中で、教学の振興と戒律の復興といった運動が起きます。
諸宗派内に檀林(だんりん)・学林などの僧侶育成機関が設けられ、そこで仏教全般の学問と宗学が学ばれました。現在の宗学は江戸時代の研究をもとに成立したものです。 戒律の復興については、真言宗では慈雲(じうん)が正法律(しょうぼうりつ)を唱え、天台宗では安楽律(あんらくりつ)論争が起きます。 安楽律論争とは、最澄以来の大乗戒に対し四分律(しぶんりつ)を学ぶことを主張し論争になった事件で、幕府の裁定で四分律を主張する安楽律派の正当性が認められました。
また、世俗の中で深い信仰に生きる人物も現れます。彼らは「妙好人(みょうこうにん)」と呼ばれる人々で、浄土真宗の信者でした。 香川県の床松(しょうま)や島根県の浅原才市(あさはらさいち)が有名ですが、彼らは船大工や履物屋をしながら、阿弥陀仏に日々感謝し、阿弥陀仏と一体となった境地を即興の詩歌で詠んで、 その気持ちを表現しました。
このように江戸時代の仏教は、自らの活動を内省し、世俗との新たな関係を模索してはいましたが、幕府との密接な関係のために、鎌倉時代にあったようなダイナミックな転換はできませんでした。 仏教に対する批判として、江戸時代初期の林羅山(はやしらざん)などの儒学者がいます。近世には近代化に伴う世俗倫理を重視する考えが生まれ、 また後に仏教内部でも戒律復興運動が起こるように僧侶の堕落も進んでいました。彼らは、こうした思想の変化と仏教界の現状に失望し、禅僧から儒教に転向した人々です。 また中期以降には、国学(こくがく)も起こり、本居宣長(もとおりのりなが)といった日本古来の思想を研究する学者が登場します。 彼らは、日本古来の思想を神道に求め、中世以降の神仏習合(しんぶつしゅうごう)によって一体化していた仏教を敵視し批判しました。
6.明治時代以降
幕末の国学の発展を受け、神道が見直されるようになりました。さらに、欧米からの開国を求める対外的圧力もあって、尊皇攘夷(そんのうじょうい)の運動が起きます。 時代の潮流は、従来の幕府の封建的な支配でなく、天皇と神道を中心とする近代国家の成立に向かいます。明治維新により、それが実現すると神道が大きな影響力を持つようになりました。 それは、幕末から明治期にかけて天理教などの新興宗教が神道から生じたことからも分かります。
江戸時代までは、中世以来の神仏習合によって神社と寺院の境界は不明瞭でした。明治政府は、神仏分離令を出して神社と寺院を区別し、神道を国家の中心とする立場に置きました。 その影響から、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、寺院は襲撃され仏教界は大きな打撃を蒙りました。その後、浄土真宗から仏教界内部で改革運動が起こります。 さらに明治10年頃から、浄土真宗西本願寺派の島地黙雷(しまじもくらい)によって信教自由論が唱えられ、仏教教団から離れた結社の活動や機関誌の発行といった啓蒙活動が始まりました。 在家の仏教者として、大内青巒(おおうちせいらん)や田中智学(たなかちがく)らがいます。その他に、浄土真宗の僧侶として精神主義を説いた清沢満之(きよさわまんし)や、 求道運動を起こした近角常観(ちかづみじょうかん)といった新しい信仰の動きも見られます。また、中国や朝鮮、アメリカなどの海外への伝道も積極的に行われました。
仏教学も大きく発展します。文明開化政策の浪に押されて、最新の欧米の仏教研究とその方法論を学ぶために、僧侶が留学しました。 ヨーロッパではインドの古典語であるサンスクリットやスリランカに残るパーリ語を学び、原典を直接読む研究が盛んでした。 この従来の漢訳仏典ではなくインドの原典を読む研究方法が海外留学者らの手によって日本にもたらされます。 また、インドの原典を逐語訳したチベットの文献も同じ理由で収集のために探検に行く者も現れました。 このように仏教の変遷過程を歴史的視点に立って見る研究が進むと、村上専精(むらかみせんしょう)や姉崎正治(あねさきまさはる)らによって大乗非仏説論が提唱されました。
大正時代には、デモクラシーの風潮から人間探求の一環として、親鸞などの高僧を扱う文学作品が数多く書かれました。 また、和辻哲郎(わつじてつろう)や西田幾多郎(にしだきたろう)といった仏教思想を背景に哲学的考察を行う思想家も現れました。日蓮主義者の中からは、国粋主義的な活動を行う人物もいました。 国柱会(こくちゅうかい)を設立した田中智学や、二.二六事件の思想的背景となった北一輝(きたいっき)などがいます。彼らの活動は、昭和の国家主義の先駆けとなりました。 その他の仏教教団も昭和に入り戦争色が強まると、国家主義に迎合しなければならなくなりました。
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〈参考文献〉
末木文美士『日本仏教史-思想史としてのアプローチ-』、新潮社、1996年
編集委員 末木文美士/編集協力 松尾剛次他『新アジア仏教史12 日本Ⅱ 躍動する中世仏教』、佼成出版社、2010年
速水侑『日本仏教 古代』、吉川弘文館、1996年
大隅和雄・中尾尭『日本仏教 中世』、吉川弘文館、1998年
圭室文雄『日本仏教 近世』、吉川弘文館、1987年
柏原祐泉『日本仏教 近代』、吉川弘文館、1990年
[文責:豊嶋悠吾 東京大学大学院]
*この記事は、平城遷都1300年奉祝イベント「ほとけの道のり」のパンフレットに転載されました。